「最後のダンジョンは実に手ごわそうだ」と、勇者アル。
「なにひとつ見えない暗闇のなか、真っ直ぐ突き進まなければならないんだね」と、戦士のボブ。
「それだけじゃない。わたしたちを阻む最大の敵は、匂い。どうやらそれぞれが持つ〈忘れられない匂い〉が誘惑をしかけてくる。それに誘われたら最後。命はない……」
魔法使いのユイが声を震わせる。
それを聞いた僧侶のクリスは小さくうなずいた。
仲間が匂いに惑わされ離れてしまわぬよう、互いにかたく手を握り、勇者一行は歩を進めた。
「えっ」
声を漏らしたのは魔法使いのユイだった。
雨あがりのアスファルトから立ちのぼる匂い。ほこり混じりの匂いが彼女の鼻先をかすめた。幼なじみと家で遊んでいたあの日の記憶がユイの脳裏に蘇る。
幼なじみの少年は、玄関先で友人の呼ぶ声がしたと色めき立ち、手にした積み木を放りだすと、一目散に駆けていった。果たしてそんな声がしたのだろうか――首を傾げながらユイもあとに続いた。
靴も履かずに家から飛び出した少年。そこに待っていたのは彼の友人ではなく、猛スピードで走る車だった。
彼は車にはねられ、その体が宙に散る。ユイは身じろぎもせず、ただ黙ってその光景を見ていた。雨が降り続いていれば、彼から流れ出る血も洗い流してくれたのに――それは突然に訪れた、幼なじみとの最後の瞬間だった。
いま、ユイの鼻腔には、雨上がりのアスファルトの匂い。懐かしさとともに痛みが胸を締めつけてくる。
「ねぇ、そこにいるの? また一緒に遊べるの?」
「ユイ! ダメだ!」勇者アルが叫ぶ。
アルの制止も虚しく、ユイは握った手をほどき、走り出してしまった。
ユイを失った勇者一行。沈黙のなかに彼女との冒険の記憶を巡らせる。感傷の色に染まっていたその時だった。
ぐぅぅ。
音が鳴った。
ぐぅぅぅぅぅ。
またしても音が鳴る。
「かあさん!」
叫んだのは戦士のボブ。
「ダメだ! ボブ! 行っちゃダメだ!」
「かあさんのつくるカレーの匂いなんだ。みんな、お腹へってない? ぼく、もう限界だよ……」
魔王のダンジョンに突入してからというもの、わずかな水だけを頼りにここまできた。事実、空腹感に襲われているのはボブだけではなかった。
「かあさん! ぼく、大盛りにしてね!」
そう言うと、ボブは握っていた手を振りほどき、走り出してしまった。
「ふたりきりになっちゃったね」
僧侶のクリスが勇者アルに言った。
「あぁ」アルの乾いた返事。
「なぁクリス? さっきから感じないか?」
「なにを?」
「ユイの匂い」
「ユイの?」
「きっと近くにユイがいるんだ。はじめてユイに出会ったときに俺をやさしく包んでくれた、忘れようとしても忘れ得ぬあの匂い」
「どうだろう? ぼくには匂わないなぁ」クリスは遠慮がちに首を振った。
「俺にとって魔王討伐は、世界の民の願いを背負った大事な使命だ。ただ俺はこの戦いのなかで、かけがえのないものを失ってしまった」
「ユイのこと?」
「あぁ。ユイを失ったいま、前に進む理由など果たしてあるだろうか」
「もしかして――」
「俺は、ユイを愛していたんだ」
アルの握る手が脱力していく。
「ねぇ、アル? わかってるよね? 行っちゃダメだよ! ねぇ、アル!」
「こんな近くに愛するユイがいるのに、誰が俺を止められるものか!」
そう叫ぶと、アルはクリスの手をほどき、走り出してしまった。
ひとりぼっちになったクリス。その手には、みんなの手の感触がまだ残っている。使命感に背中を押され、歩を進めようとしたそのとき、忘れられない匂いが鼻腔を刺激した。急なめまいに襲われ、クリスはその場にうずくまってしまった。
あの忌まわしい匂い。
クリスの父は、母に暴力をふるった。いつも酒に酔っていて、ひとたび癇癪を起こすと止めようがなかった。家具や食器は壊され、壁には無数の穴、家族の思い出を綴った写真もズタズタに引き裂かれた。
家にお金を入れない父。体の弱い母は内職で家計を支えるのが精一杯だった。そんな母を助けるため、勉強する時間を犠牲にし、クリスもアルバイトに勤しんだ。
壊れたトイレからはずっと異臭が漂っていた。台所には汚れたままの食器。雨漏りする天井。カビの匂い。鼻を突く家畜の匂い。父の怒声とともに充満するアルコールの悪臭。未払いで水道は止められ、満足に風呂に入れない自らの汚れた体から漂う体臭。
ある日、クリスは酒瓶を手にしていた。目の前には、酒に酔ってだらしなく眠る父。やるなら今しかない――もはや迷いなどなかった。
放置したままの父から発せられる腐臭。いつまでも鼻の奥にこびりついて離れない汚臭。
クリスは立ち上がると、まとわりつく匂いを振り払うように、真っ直ぐに走り出した。忘れられない匂いに誘われることなく、それを忌み嫌うようにして。
そしてクリスは魔王の間にたどりついた。
アルもボブもユイも失ったいま、非力な僧侶の自分が魔王を討伐することなど不可能だ。ただ、それでもやらねばならない。
「だって、ぼくらは誇り高き勇者一行なんだから!」
そう叫んだクリスの前に現れた魔王。その姿を目にした彼は言葉を失った。
「おかあさん……」
そこには彼の母が立っていた。
両手を広げ、クリスを待つ母。
おぼつかない足取りで、彼は母のもとへと歩いていった。
「クリス。がんばったね」
母はクリスを抱きしめた。
その胸に抱かれたクリスは、愛おしい母の匂いを鼻腔いっぱいに吸い込んだ。解き放たれたように流れる涙。許したのか許されたのか。二度と手が触れないようにと、心の奥底に沈めたノスタルジアは、ただひたすらに慈悲深かった。
「勇者一行よ、残念だったな」
慈愛に満ちた母の声が、醜い声へと変わっていった。
魔王の腕に締めつけられたクリスの背骨は、鈍い音をたて、へし折れていく。
――ああ、ぼくは魔王にしてやられた。まんまと騙されてしまった。まったくぼくは無力だ。でも……。
大きく開いた魔王の口。鋭い歯の先からは、よだれが垂れ落ちる。魔王に体を喰われるたび、全身に激痛が走った。ただ、クリスの表情はどこか穏やかだった。
鼻腔を撫でる母の匂いは、まだ消えずに残っている。クリスにとってそれは、至福の時間だった。
「おかあさん、いま行くからね」
クリスの残した最後の言葉を、魔王の咆哮がかき消した。