ある老夫婦の別れ

 日本が長寿国家になって久しい。
 吉蔵も例に漏れず、このたび百一歳を迎えることとなった。昔であれば長命を派手に祝われでもしたのだろう。しかし今では、そう珍しいことではなくなった。
 三寒四温を過ぎ、春らしい日々がおとずれたある昼下がり。吉蔵は日課にしている散歩の途中で疲れを感じ、公園のベンチに腰かけた。
 体に浴びる日差しに、うとうとしはじめたとき、ふいに声をかけられた。薄く目をあけるとそこには、近くに住む古くからの知人の姿があった。
「奥さん、どうしたっていうんだい?」
「ん?」
「ん、じゃねぇよ。あんたのところの奥さん、近所じゃもっぱらの噂になってるよ。荷物をまとめて出て行っちまったってなぁ。まさか、この歳になって離婚もなかろう――」
 少子化が急速に進み、町ではすっかり子どもの姿を見なくなった。公園には健康を保とうと運動に勤しむ老人の姿が見立つ。
「契約が切れちまったんだよ」
「なんだ? 契約だ?」
「そう」吉蔵はポツリとこぼす。
「やっぱり離婚かい?」
「違う。契約だよ」
「はて、理解が及ばんなぁ。いったい何の契約だね?」
 あわよくば餌にありつけるかもと、鳩たちがそわそわした素振りを見せている。
 吉蔵は遠い記憶を求めるように、仰々しく空を見上げた。まばらな雲が漂っている。
「ずいぶんと昔、レンタル女房ってのが流行ったこと、覚えているかい?」
「レンタル女房? そう言われれば、そんなモノが話題になった気もするなぁ」
「まぁいいさ。とにかくレンタル女房ってのが流行ったんだよ。俺ぁ、自慢できる才能もなければ甲斐性もない男だったから、どうにも結婚できそうになかった。周りの連中は意中の女を射止めて、そそくさと所帯を持っていきやがった。それで焦った俺は――」
「レンタル女房を迎え入れたってわけかい?」
「ああ」
「そういう事情があったとはいえ、あんたら夫婦にくだらん噂が立った試しなどなかったろう? 仲睦まじくやってたじゃないか。それがどうして?」
「レンタルの期限が切れちまったんだよ」
「はぁ? いまさら? いったい、どんな契約だったんだい?」
「笑ってくれるなよ」
「笑わんよ」
「まさか、こんな時代になるなんて思ってもみなかったからよぉ。若気の至りに任せて勢いで条件をつけちまった……」
「どんな?」
「百歳まで一緒に居たい! ってな」
 知人の男はこみ上げる笑いに耐えきれず、派手に咳き込んだ。
「笑っちまうよなぁ。でもさぁ、百歳まで一緒に居たいなんて、当時じゃキザな宣言だったんだよ。まさか人間がこんなにも長く生きられる時代がくるなんて、思ってもみなかったからさぁ」
「そりゃそうだ。昔は、七十や八十まで生きられれば御の字だったからなぁ」
「どっこい、この有り様だよ。百一歳になってもピンピンしてらぁ。医学に文句を言ってやろうか」
「それで、晴れてレンタル期間が満了したってわけか」
「左様」
「しかし、こんな晩年に独り身になっちまうなんて、おまえさん、不幸モンだなぁ。どうにかならんのか?」
「契約は契約よ。所詮はレンタル女房。あいつは俺のモノじゃねぇ。借り物の女房だったってことさ」
 やるせなさに任せ、吉蔵は足元の砂を軽く蹴り上げた。それに怯えた鳩たちが、一斉に空へと飛び立って行った。

 妻の姿が消えた家。家に居てもことさら干渉し合う間柄じゃなかった。会話がめっぽう多いほうでもなかった。それでも、妻の消えた空間には、違和感を覚えるばかり。はて、昨日までどんな風に過ごしていたものか。すんなりと思い出せない。
 あてもなくテレビの電源をつける。老いた実演販売士が、はつらつとした調子で声を張り上げている。自社の商品を自慢げに披露する通販番組。興味はないが、時間をやり過ごすにはうってつけだ。
 ポケットに手をつっこみ煙草を取り出す。乱暴に口へと運び、ライターで火をつけようとしたその時、玄関からなにやら音がした。
「吉蔵さんや」
 忘れようとしても忘れられぬ声が耳に飛び込んできた。それはまぎれもなく妻の声だった。
「暁子か? 暁子なのか?」
 もう何十年も感じたことのなかった胸の高鳴り――蒼く瑞々しさすらあり躍動するような――それが心臓のあたりで暴れ出した。
「吉蔵さんや、どうやら契約違反があったみたい」
 まとめた荷物を引きずりながら、居間へと姿を見せた妻が言う。まるで初恋の相手に焦がれるような眼差しで、妻を見やる吉蔵。
「契約違反とは?」
「契約書に書いてあったでしょう?」
「そんなもん、よう読んどらんわ……」
「破損や変形が生じたレンタル女房は、返却が受けつけられないって」
「はて? おまえのどこに破損や変形が?」
「吉蔵さんの目は節穴ですか?」
 妻は笑ってみせた。
「わたしをご覧になってくださいな。出会った頃と比べてどうです? 顔は皺だらけ、歯もすっかり頼りなくなって、いまじゃ腰だってこんなにも曲がってしまったじゃない」
 目に熱いものを感じた吉蔵は、居ても立っても居られず、のっそり腰をあげると、労るように妻の手をとった。
「で、契約違反をした場合、いったいどうなっちまうんだい?」
 夫の手をたしかめるように、妻も自らの手を重ねあわせた。
「買い取りになってしまうそうです」

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