得意先からの帰り道。女は駅までの道のりをショートカットするため、途中にある児童公園を横切ることにしている。
午後4時。その日も公園に足を踏み入れた。昨日降った雨のせいで、足元の土がゆるい。
楽しげに遊ぶ子どもたちの甲高い声。スマートフォンで仕事のメールをチェックしながら歩いていると、目の前にひとりの小さな男の子の姿。子供用のサッカーボールを小脇に挟んで立っている。
よく見ると、あいた手で目元をこすっている。どうやら泣いているようだ。
女は心配になり声をかけた。
「――――」
返事を待ってみたが反応はない。
「う~ん。泣いてるだけじゃわかんないなぁ。ボク? 大丈夫かなぁ?」
依然、反応はない。
オフィスに戻って会議の資料を作らなければ。急かす上司の顔が浮かぶ。気がかりではあるが、相手をしてあげられる余裕はない。
「時間になったらちゃんと帰るんだよ。わかった?」
泣きやむ素振りもみせない男の子。何度か頭を撫でたあと、後ろ髪を引かれたまま女はその場を去った。
それから数日後、再び児童公園を横切る機会があった。泣いていたあの子のことを思い出す。すると、視界の先にはまたしても、あの日と同じ姿があった。
いてもたってもいられなくなり、今度こそはと女は駆け寄った。
「ねぇねぇ、どうしたの? 今日も何かあったの? おねえさんに話してよ」
あの日と同じく、反応はない。
腰をかがめ、目線をあわせながら問いかけていると、周りから少年たちが集まってきた。
――もしかして、この子たちにイジめられてるんじゃないか?
そう勘ぐった女は、少年たちを睨みつけた。
「キミたち、この子のこと、イジめてるの?」
少年たちは物怖じすることもなく、おどけて笑い合う。
「俺たちがそんなことするわけないじゃん。こいつが変なこと言って泣いてるだけだよ」
「変なこと?」
「うん。なんだか、人の死が見えるんだって。それで悲しくなって泣いてるらしいよ。ちょっと変なヤツなんだよなぁ~」
――人の死が見える?
くわしく尋ねたかったが、自分たちが遊びの途中だったことに気づいたのだろう、少年たちはあちらこちらに駆け出していった。
「ねぇねぇ、どういうこと?」
あらためて子どもに顔を近づける女。
すると、小さな胸を震わせて泣く子どもの口元から、かすかな言葉が漏れていることに気づいた。
「――今日もどこかで人が死ぬ。今日もどこかで殺される。今日もどこかで――」
呪文を唱えるように呟かれる言葉に気味が悪くなり、女はのけぞった。
「いったい、何を見てるの?!」思わず声を荒げる。
すると子どもは、細い指で女のコートの袖をつまんだ。泣き腫らした目を女に向け、何やら訴えかけてくる。
「どうしたの?」
「……ストーカー」
「えっ?」
「ストーカー」
「ストーカーがどうしたの?!」
それだけ言うと、子どもは振り出しに戻ったように、またしても泣きはじめた。女が問いかけても、それ以上の反応が返ってくることはなかった。
残業を終え帰路につく。
極寒のなか、まちを歩く人影も少ない。ひとり暮らしのマンションが近づいたとき、女はあの子どもの言葉を思い出した。
――ストーカー?
反射的にうしろを振り返る。が、誰もいない。まさかとは思いつつも、意識しはじめると急に不安が押し寄せてきた。
スマートフォンを取り出し、電話をかける。女は恋人に伝えた。――いまから家に来て欲しい。
幸いにも恋人は数駅先の街に住んでいる。到着までにそう時間もかからないだろう。万が一の事態に備え、恋人がやって来るまで帰宅せず、外で待つことにした。
ただ、冬の夜の寒さは予想以上に厳しかった。用心し過ぎかも――そう思い直すと、急に弱気になってしまい、あたたかさを求めるようにオートロックへと手を伸ばした。
エントランスから誰もいないエレベーターホールへ。無人のエレベータに乗り込む。
玄関の前に立ち、カバンの内ポケットにしまったカギを探す。――あれ? カギが見あたらない。ゴソゴソとカバンの中をあさる。指先に触れたカギの感触に安堵した。
カギを開け、ドアノブをひねった時だった。
身体に衝撃が走り、羽交い締めにされたことに気づいた。うしろから伸びた手が強引にドアを開く。そのまま押されるように玄関に倒れ込むと、何者かの体重が重くのしかかった。叫ぼうにも、手で口をふさがれているため、まともに声も出せない。
なんとか首をひねり、後ろに目をやると、そこには見知らぬ男の顔があった。荒い鼻息が頬を打つ。
男はあいた手で女のコートを脱がそうとした。抵抗を試みたが、覆いかぶさる男の体重には抗えず、身動きすらできない。
荒々しい動きでスーツを脱がし、破るようにシャツを剥がした。女の肌が露出する。男の手がスカートへと伸びたその瞬間、隙をついて男の身体からすり抜け、よろける足取りでリビングへと走る。
女のあげた悲鳴に逆上したのか、男は肩で息をしながらリビング目がけて迫ってくる。その手にはナイフが握られていた。
と、その時、玄関のドアが開いた。
非常事態に気づいた恋人が飛び込んでくる。
彼は強い。ラグビーで鍛えた大柄な身体は、女の自慢するところでもあった。
――助かった。
一瞬にしてそう悟った。彼は瞬く間に男を取り押さえ、抵抗できなくなるまでプロレスの絞め技をかけた。
あまりの恐怖に、目の前の出来事が現実とは思えず、まるで映画でも見ているような感覚が襲う。リビングにへたり込んだまま女は、なんとか正気を保とうと、声にならない声を漏らしつづけた。
次の日、全身の筋肉痛と沈んだ気分を抱えながら、児童公園を横切る。
――彼が来なかったら、わたしは男に強姦され、殺されていたかもしれない。
男が握りしめていた刃物の鋭さと鈍い輝きが脳裏に浮かんだ。
「あっ!」
視界の先には、あの子の姿があった。
人の死が見える悲しき少年。
ストーカーの危険を報せてくれたことで、事前に恋人を呼ぶことができた。あれはお告げだったのだろうか。結果、命が救われた。
お礼を言わなきゃと、女は駆け寄った。
すると、会うたびに泣いていた少年が、今は子どもらしい笑顔を見せている。
「今日は笑ってるの?」
「うん」
「いいことでもあった?」
「助かってよかったね」
「え?」
「おねえさんが死ぬところを見なくて済んだよ。ありがとう」
――まさかこの子は、あの光景を目にしていたのだろうか?
「それとね――もうひとつ忠告があるんだ」
一気に不安がつのる。
「昨日、おねえさんを助けてくれた彼氏さん。ほかにも付き合ってる彼女がいるんだ。もちろん、おねえさんに内緒でね。真実を知ったとしても怒っちゃダメだよ。もちろん、彼氏さんを殺すなんてことは――」
女は頭が真っ白になり、言葉を失った。
「ボクのこと、泣かさないでね」