ある冬の朝、アート雑誌に掲載するインタビュー記事を書くために、男は画家のM氏のアトリエを訪れた。
「先生のモチーフは一貫して――」
「冬の朝だよ」
壁はもちろんのこと、梁までもが白くペイントされた空間。他の色が一切排除されたアトリエの壁には、M氏の作品が等間隔に飾られ、観る者に語りかける。
「それにしてもこの象徴的なシンボル。なんと言いましょう、花火を彷彿とさせる大輪が――」
「雪火。私にとって普遍のコンセプトだよ」
「そこにはどういった考えが?」
「あべこべ――だね」
「――と言いますと?」
「花火はいつ見る?」
「一般的には、夏の夜かと」
「私の絵のモチーフは?」
「冬の、朝」
M氏が示唆することに気づくと、男は大げさにうなずいた。
「夏の夜ではなく、冬の朝に打ち上がる。そして、火の大輪ではなく、雪の大輪。ほうら、あべこべだろう?」
M氏は――別にたいしたことじゃない――と言わんばかり、表情ひとつ変えることなく語ってみせた。
それから数時間、M氏のあべこべについての持論は続いた。それはとても革新的でいてどこか牧歌的。宗教的ともいえる思想は、男の持つ常識という観念をじわじわと上塗りしていった。
「あべこべかぁ」
まるで――ここではないどこか――へと旅をしてきたような、そんな掴みどころのない心持ちのまま、男はアトリエをあとにした。
その直後から異変は起こった。
駅に向かい歩いているとき、立ち止まった交差点で目を疑う。
目の前にはぞろぞろと連なる歩行者たちの姿。見慣れた光景と思いきや、ひとつだけ違和感があった。
赤信号。
おいおい。この町の住人の民度はどうなっていやがるんだ。堂々と灯る赤信号を前に、男は小首を傾げた。ただ、斜め上を見上げると、そこには青信号。それに制されるように停車する車たち。
あきらかに様子がおかしかった。まるで幼児向けの間違い探し。ただ、ちょっとした違和感で片づけようとしていた男に、その後も異変はおとずれた。
ダウンジャケットを着ていても寒いこの季節。身体の冷えから尿意を覚え、駅のトイレを目指す。すると、またしても信じられない光景が。
駆け込もうとした男性用トイレに、女性たちが吸い込まれていく。
性の多様性に配慮した類のトイレではない。駅の中によくある、うっすらアンモニア臭が漂っていそうなトイレだ。
男はしばらく立ち止まり考え込んだ。
――いくら女性たちが男性用トイレに入っていったからって、あべこべに俺が女性用トイレに入って用を足すわけにはいかない。
ん?
あべこべ?
M氏の顔が浮かんだ。彼の描く象徴的な作品と、彼の説く思想に、もはや信仰心に似たものを抱きはじめていた。
男は意を決し飛び込んだ――女性用トイレへと。男の仮説は正しかった。やはり、世界があべこべになっている。現に、女性用トイレの洗面台の前には、スーツを着た男が立ち、その身なりを整えていた。
やはりな。
勝ち誇ったように頷きながら、男は一番奥の個室へと潜り込み、用を足した。
あれから世界は豹変した。
すべてが、あべこべになったのだ。
熱いスープを飲むときにはフォークを使い、外出するときには靴を脱いで裸足になった。晴れの日には傘をさし、モノを買うときには、店員が客に金を支払う。大人が子どもに、上司が部下に対し、敬うように敬語を使う。
不自然な日常にも、今やすっかり慣れてしまった。常識というものは、こんなにもあっさりと覆されてしまうんだな。大通りの赤信号を渡りながら、男は思う。
あれから一年ほどが経っただろうか。あの日とよく似た冷え込む冬の朝。昨夜から急に降り出した雪がうっすらと積もり、踏みしめる足元で軽快な音を鳴らす。男はアポイントもなしに再びM氏のアトリエを訪ねた。
会ってもらえる確証のない訪問だったが、M氏は快く男を招き入れた。
「私の絵が訴えるメッセージを理解してくれたようで」
「えぇ。今じゃすっかりあべこべに」
「心地よいものでしょう?」
M氏はあの日と同じように、やわらかな声色で男に語りかけた。
アトリエに飾られた絵に心を奪われる。あべこべを表現した作品たち。屹立するように描かれたシンボルに、もはや違和感など微塵もなかった。
「そろそろ、あなたにも見えるだろう」
「と、言いますと?」
「まぁ、楽しみにしていなさい」
心を愛撫されたように、脱力感が男を包む。その余韻を味わいながら、男はアトリエをあとにした。
自らがつけた足跡をなぞるようにして、駅へと向かう。すると、その時だった。
ひゅーっという小気味良い音とともに、大きな破裂音が頭上から降ってきた。
男は思わず空を見上げる。
あっ。
そこには、真っ白な雪に彩られた大輪。上空で四方八方に飛び散る雪片たち。やがてそれは泡雪となり、この世界へと舞い散る。
「これが雪火かぁ」口元で小さく漏らす。
周囲にもちらほらと人の姿はあったが、誰ひとりとして空を仰ぐ者はいない。空での高尚な出来事に、誰も気づいていやしない。ひとり占めの雪火大会。優越感はひとしおだった。何発も打ち上がる雪火の荘厳さに、言葉を失い、立ち尽くした。
神秘的な時間に酔いしれる男。その目を覚ますように、男の手に何かが触れた。
目をやると、手には銀色の輪がかけられていた――手錠だ。
耳元で声がする。
声の主に目を向ける男。そこには警官の姿が。
「警察まで来てもらいましょう」
「警察? 俺が何を?!」
「ついさっき、駅前で何をされてました?」
「……駅前で?」
「おばあさんに道案内してたでしょう?」
警官は鋭い眼光で男を睨みつけた。
「良いことなんてしちゃダメでしょ。立派な犯罪ですからねぇ」