前しか見えない

 なんだこの景色は? もしかして、いつかの学校の帰り道か? おいおい。いったい、どういうことだ? こんなの望んじゃいないぞ……別のはどうだ? ただひたすらに視界に映る天井。見慣れた天井ではあるが、こんなもの望んじゃいない。
 なんでこんな場面が?
 男はいまにも気が触れそうになっていた。それに抗おうと頭を激しく振る。髪を掻きむしり、握った拳で頭を何度も叩く。当たり前が消失した感覚。まるで呼吸の仕方を忘れたみたいだ。こみ上げる吐き気に耐えながら、もう一度ためしてみた。
 ダメだ……。
 退屈な授業風景。愛想のない犬をつれて散歩する近所の老人。満員電車。無駄に豪華で下品な屋外広告。散らかった部屋に、ぬるくなった缶ビール。何の個性もない曇天の空。
 それなしじゃ生きられないなんて、思ったことがなかった。むしろ、そんなもの捨ててしまえと息巻いて生きてきた。
 しかし、前触れもなく襲ってきた異変の前ではそんな威勢もすっかり鳴りを潜め、すがるように男は医者を頼った。

「手術は無事に終了しましたよ」
 全身麻酔から目覚めた男に、医師の声が降る。
 夢から覚める感覚。徐々に輪郭を取り戻す意識。男は目をつむったまま浸ってみた――
 あっ。ミサキだ。元気にしてるかなぁ。あの頃のおれがもっと真っ当な生き方をしていれば別れずに済んだはず。
 本来ならば、おれなんかが付き合える女じゃなかった。実に惜しいことをした。ミサキ、ミサキ……。今でも、おれとのことを思い返したりするのだろうか。
 若気の至りで飛び出した実家。結局、会わずじまいで親父とおふくろは死んでしまった。一度くらいは顔を見せるべきだったなぁ。これだけ月日が経てば素直にもなれる。時の流れってのはよくわからないもんだ。
 そういえば夢を追って海外に飛び立ったあいつは元気だろうか? ガキの頃によく足を運んだたこ焼き屋はいまでもあるんだろうか? バレンタインの日にチョコをくれたあの子は? はじめて営業成績でトップを獲ったときにもらった記念のボールペンは? 校舎の片隅に埋めたタイムカプセルは?
 目尻からひとすじの涙が流れていた。
「調子はどうです?」
「おかげさまで、はっきりと見えます」
「それはよかった」
 男はどっぷりと感傷に浸ったまま、深い眠りに落ちていった。

 生きていればそれだけ思い出は増えていく。もちろん楽しいことばかりじゃない。つらいことや悲しいこともたくさんある。ただ、振り返ってみれば、どれもこれもが愛おしい。
 手術を受けたあの日、医師は言った。
「一種の奇病ですね」
「奇病?」
「はい。過去を振り返ったときに、望んだ思い出にピントが合わなくなる病気です」
「ピントですか?」
 聞いたこともない症状に男は戸惑った。
「ノスタルジックな気分で過去を振り返るとき、人は望んだ思い出にピントを合わせ、その景色を眺めているのです。この病は目の病気と似ている。過去にピントが合わなくなると――」
「望んでもいない過去の記憶に焦点が合ってしまう?」
「そういうことです。今回の手術は、脳細胞向けのレーシック手術とでもいいましょうか」
 術後、男を悩ませた症状はすっかり消えてなくなった。自由に過去を振り返り、望みどおり感傷に浸ることができた。
 そんなある日、再び男を異変が襲う。
「先生!」
 うろたえる男は担当医に電話をかけた。
「どうしましたか?」
「真っ暗なんです!」
「――と言いますと?」
「過去が、思い出が、真っ暗なんです!」
 電話の向こうで黙り込む医師。
「先生! どうにかなりますか!?」
「そ、そうですねぇ……」

 それは医療ミスだった。
 過去の思い出にピントが合わなくなった脳は、手術により完治したと思われた。だた、手術中のミスが発覚。致命的な過失は神経細胞を破損させており、修復がきかない状態になっていた。
 医師から告げられたのは、二度と思い出を振り返ることはできないという宣告。心が失明したというわけだ。これまで歩んできた人生そのものを失った気がしてひどく絶望した。
 過去を持たない人間は、どうやって新しい日々を待てばいいのか。これから先に訪れる特異な未来を、正常に歩んでいく自信などなかった。
 そんなある日の昼下がり。ふらふらと繁華街を歩いていた男を呼びとめる声があった。
「山下課長!」
 振り返るとそこには、立派なスーツに身を包んだ青年の姿。
「お久しぶりです!」
「あ、あぁ」
 誰だろうか?
「僕がN社を辞めてからもう五年ですよ。元気にしてましたか?」
 N社は男の勤める会社。退職していった者は決して少なくないので、彼もそのうちの一人なんだろう。
「ブラック企業にいたあの頃が、実に懐かしいですよ。当時は課長にしごかれ、毎日がつらくてつらくて。結局、逃げ出すように辞めちゃいましたけどね。
 ただ、課長の厳しい指導のおかげで、いまじゃ成功者の仲間入りです」
 青年はわざとらしく音をたててスーツの下襟を正した。
「いまでもパワハラ上司やってるんですか? もう時代は変わったんですから、いまの若い子にあんなこと言ってちゃだめですよ」
「あんなこと?」
 青年は男のモノマネをしているのだろう。口角を歪め、嫌味な表情をつくってみせた。
「『いいか! 死ぬまで働け! 死んでも働け! 男だったら過去なんて振り返るな。前だけ見て生きろ!』ってやつですよ」

GuX^ V[gV[giJ