ようこそ、約束の場所へ

 頭を掻きむしりながら時計に目をやる。もうすぐ日付が変わりそうだ。他の社員たちはとっくに帰ってしまった。昼間の喧騒からは想像もつかない静けさ。がらんとしたオフィスには男がひとり。パソコンのモニタライトの光が、くたびれた男の顔を照らしている。
「ひっ!」
 サイドデスクに積まれた書類に手を伸ばした時だった。男は思わず身体をビクつかせた。すぐそばに長身の男が立っていたからだ。
「な、な、何をやってるんですか?!」
「ある女性を待っているんです」
「ある女性? はぁ?」
「十年前の今日、彼女と約束したんです。十年後、もしお互いに恋人がいなかったら、約束の場所で会おう。そして二人、結ばれようって」
「うちの会社が、約束の場所?」
「いいえ……」
 そう言うと長身の男は、腕時計に視線を落とし、深くうなだれた。男もつられてオフィスの壁掛け時計に視線を移す。時計の針は十二時を回っていた。
「やっぱり来てくれなかったか……彼女はきっと、他の誰かと幸せに暮らしてるんだろうな。素直に待っていた俺がバカみたいだ」
「あ、あの……」
 目の前の状況は掴めないが、慰めの言葉のひとつでも。そう思い、声をかけようとしたが、彼は肩を落としたまま、無言でオフィスから去ってしまった。

 幽霊か? 幻か? 単に疲れていただけか? 彼はいったい何者だったのだろう――深夜残業から帰宅し、しばしの休息をとる。コンビニで買った弁当をかき込んで、風呂に入って仮眠をとれば、数時間後には再び出勤。ブラック企業に身を置く者のルーティーン。できるなら早く眠ってしまいたい。ただ、先ほどの奇妙な出来事が、男の神経を尖らせ、眠れないでいた。
 スマートフォンで適当な動画を垂れ流し、眠気がやってくるのを待つ。
「わっ!」
 気づくと男の隣には、見知らぬ青年が座っていた。
「ちょ、ちょっと、人の家に無断で入ってきて、なんですか!?」
「ははは、笑ってやってください」
「な、なにを」
「幼い頃の約束を、まだ忘れられないでいる。まったく哀れな男ですよ。こうして純粋無垢に約束の場所へとやって来たんですから」
「約束の場所……? 僕の家が?!」
「家? まさか。あなたですよ、あなた」
「僕……?」
「あの日、僕は幼馴染のシホと約束したんです。ハタチになったら約束の場所で会おう。そして、結婚しようって。幼稚園の頃に交わした幼い約束ですから、すっかり忘れちゃっただろうなぁ」
 青年は遠い目をした。
「質問なんですが……ほんとにこの僕が約束の場所ってことで間違いないでしょうか?」
 男の問いに青年が返事しようとしたその時、玄関のドアが開く音がした。
「もしかして!?」
 廊下を駆ける軽妙な音とともに、ひとりの女が姿を見せた。
「約束の場所に来てくれたんだね!」
「もちろん。あの日、約束したじゃない」
「夢みたいだ!」
「わたしも!」
 まるでドラマのように抱き合って喜ぶ二人。声をかけようか迷ったが、若い男女の恋愛に水を差すわけにもいかない。運命ともいえる再会の時をひとしきり味わったのだろう。二人は男に気をかけるでもなく、手をつなぎ、そそくさと出て行ってしまった。

 どうやら縁もゆかりもない者たちの、約束の場所にされているらしい。あの日から、人がやって来ては去り、またある者は、約束の日までにまだ日があるからと、男のそばに居座った。
 ふつう、小高い丘の上に立つ象徴的な木のもとで再会を誓ったりするもんじゃないのか? 男は小首をかしげながら、そばにいる者たちを眺めた。
 いまや、男のもとで約束の日を待つ者が、七人に膨れ上がっていた。はたから見たら、不揃いの者たちが集う、妙な集団に映ることだろう。
「あっ、しまった!」
 カバンから手帳を取り出し、カレンダーのページを開く。連日の妙な出来事に気をとられ、すっかり忘れていた。絶体絶命の事態に、男の膝は頼りなく震えていた。
「あの、み、みなさん。約束の人を待っているところ申し訳ないのですが……僕にも所用がありまして」
「用事ですか?」ひとりの女性が応える。
「えぇ。まぁ、みなさんと同じように、僕にも約束がありまして。約束の場所へと向かわなければならないのですよ」
 男が言い終わるや否や、七人は一斉に立ち上がった。どうやらついてくる気でいるらしい。
「あっ、それが穏やかじゃない用件なので、みなさんをお連れするわけにもいかず――」
「それは困ります。その間に、彼が約束の場所に姿を見せるかもしれない。そうなれば、私たち、永遠にすれ違ってしまいます」
「そうだそうだ。約束の場所に身勝手なことをされちゃ困る。こっちとら、何年越しの約束を託してると思ってるんだ。ちょっとは自覚してもらいたいもんだ」
 壮大な約束を抱える面々。聞き入れてもらえる様子は微塵もなかった。
 交渉を諦めた男は、気乗りしないまま、皆を従えて約束の場所へと向かった。

 ある事務所のドアを開ける。
「おう。金は持ってきたか?」
 男を目がけて野太い声が飛んできた。
「あ、あの、お金の件ですが、もう少し待っていただけないでしょうか……?」
「いつまで待たせりゃ気が済むんだ! 今日までに借金を返すって約束したのはそっちだろ? いったい何しに来やがったんだ!」
 ソファに身体をうずめ、唇の端に挟んだタバコをくゆらせる声の主――サングラスの強面は、男の背後にズラリ並ぶ者たちを指さした。
「まさか、仲間を連れてきたってわけじゃないだろうな?」
「いいえ! これは、あのっ、その……」
「てめぇ、バカにしやがって!」
 まばたきの隙も与えぬ動きで脇にあったピストルを掴むと、強面は容赦なく男を撃ち抜いた。
 惨劇を目の当たりにした男の連れの者たちは、「約束の場所が!」と、慌てふためいた。

「彼は来てくれるだろうか。あんなにも遠い日の約束。きっと覚えてないだろうな」
 女はおだやかに微笑んだ。
 ひとり空を見上げる。そこには凛とした冬の青が広がっていた。
 所在なく爪の甘皮をイジッていると、すぐそばに人の気配を感じた。
「ミサキ?」
「え?」
 目をやると、そこには男の姿が。
「来てくれたんだ!」
 女の瞳には涙があふれる。
「もちろん。あの日、誓ったじゃないか。約束の場所で会おうって」
 長い月日を経て叶った約束の再会。二人は強く抱き合い、終わることのない口づけを交わした。
 小高い丘の上に建てられた、ある墓の前で。

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