変わり果てた天使

 くたびれた夜を走る、乗客もまばらなローカル電車。俺はある中年男性の隣に腰掛け、耳打ちした。
「やりたいんだろ?」
 突然のことに虚をつかれたのだろう、男は体をビクつかせた。
「心配はいらない。俺は天使だ。お前さんの中にある善と悪。そのうちの俺は、善だ。迷うことはない。やりたいんだったら、やっちまおうぜ。どうせバレやしない。短い人生、生きたいように生きるのが正解ってもんさ」
 張り詰めた様子の男は、正面を向いたまま俺の助言に応えた。
「こういう場合、天使と悪魔が拮抗するのが一般的なのでは……? いや、そもそもあなたは本当に天使か? まるで悪魔の囁きのようにも聞こえるが」
「悪魔? 笑わせるじゃないか。俺は歴(れっき)とした天使さ。そして、俺ほどになれば悪など寄せつけない。万能の天使にかかれば、悪魔とやり合う必要もない。つべこべ言わず、天使である俺の助言に従えばいい。さぁ、やっちゃいな。チャンスは一瞬。そのボタンを押すだけだろ。後悔することになるぜ」
 確かに──男は小さく頷くと、手にしたスマートフォンに表示された赤いボタンをタップした。
 するとそこには、短いスカートの暗部から覗く白い下着が映し出された。
 向かいの席には、ぐったりと眠りこけた若い女が座っている。きっと酒にでも酔っているのだろう。くだけたその体勢。無防備に開かれた脚。太腿の隙間からは下着が覗いている。
 盗撮。
 禁断の映像が映る手元の画面を注視し過ぎないよう、男は不規則に視線を泳がせた。と、その時だった。
「おい! お前、何を撮ってやがる」
 ドア付近から怒声が飛んできた。
「あいつ、盗撮してるぞ!」
「どいつだ?」
「あいつだ!」
 車内に飛び交う男たちの声。ただならぬ様子に目を覚ました盗撮被害者の女。咄嗟にその姿勢を正した。
 男は慌ててスマートフォンのカメラをオフに。何事もなかったようにポケットにそれをしまった。しかし、正義感溢れる者たちが男を取り囲み、拒む男のポケットからスマートフォンを引っ張り出した。
「俺が捕まえておくから、車掌を呼んでくれ!」
「わかった!」
 正義ある者たちの連携はスムーズだった。逃げ出せぬよう男は両肩を押さえつけられ、惨めに足をバタつかせている。
「おい! あんた天使じゃなかったのか! なんで止めてくれなかったんだよ! そそのかしやがって、お前は悪魔か!」
 盗撮犯に成り果てた男の怒りの矛先は、どうやら俺に向けられているらしい。当然と言えば当然か。が、知ったこっちゃない。これが俺なりのおもてなしだ。
 恨む男の視線を背中に感じながら、俺は車両をあとにした。

 思い返せば、忌まわしいあの出来事がきっかけだった。俺の中で天使の役目なんがどうでもよくなってしまったのは。
 薬物に依存して生きる男がいた。そんな男にも、心から愛せる女との出会いがあった。その女が願うならと、薬物を断つ覚悟を決めた。男の意思は固かった。しかし、女の浮気が発覚。頭に血がのぼった男は、容赦なく女を追い詰めた。
 天使である俺は、男の中に棲む悪魔と火花を散らした。必死で男を制止した。本当に彼女は浮気をしたのか? もしかすると何かの間違いかもしれない。もしそうだとしても、男に非はなかったのか? 一時の感情ですべてを壊してしまうのは、あまりにも愚か過ぎる。冷静になるべきだと諭した。しかし、男の悪魔は強かった。
 俺はさんざんに打ちのめされ、結果的に男は彼女に凄惨な暴力を振るった。さらには、やめていた薬物にも再び手を染めた。
 血にまみれ、ぐったりする女を見下ろす男。その目は不快なほどにギラついていた。呆然とそばに立つ俺を、ニヤつきながら一瞥すると、男は「ペッ」と俺の頬に唾を吐きかけた。
 結局、女の浮気は男の勘違いだったことが判明した。
 天使なんて、ロクな存在じゃない。

 天使を自称しながら、人をそそのかし、陥れ、堕ちていく人間たちを眺める日々。空虚ではあるが、現実から目を背けるにはうってつけだった。
 そんな俺の目の前に、ひとりの女が現れた。
「あなたを救いたいの」
 冬夢美咲? 東夢美咲? まぁ、ともかく、トウムミサキと名乗る女。潤んだ瞳で俺を見つめてくる。
「あなたには天使らしく生きて欲しいの」
「俺はもう天使なんかじゃない。救おうとした人間から、顔面に唾を吐かれた堕天使。いや、堕天使どころか、今じゃ人を陥れるのが専門のペテン師さ」
「ペッとつばを吐かれた天使で、ペテン師。うまく言ったものね」
 女は怪しげな微笑を浮かべると「あなたのその汚れ、わたしが浄化してあげる」、白く細い指で俺の頬をなぞった。そこに唇を触れさせ、あろうことか舌で頬を濡らしていった。ねっとりと蠢きながら、頬の上を這う彼女の舌。気づけば、俺たちは唇を重ね合わせていた。
 女の妖気に気圧されるように、俺は足をすくませた。
 女の舌が口内を弄っていく。俺はそれを貪った。目をつむり、無心になって唾液を混じり合わる。うっすら目をあけた俺は腰を抜かしそうになった。目の前のトウムが俺の口をこじ開け、俺の中に潜り込もうとしているではないか。
 信じがたい光景に叫び出しそうになったが、なぜか彼女の行為は心地よく、身を任せるうちに全身の緊張が解れていく。深く潜られるほどに、快感すらも覚えていった。
 まるで性欲を満たすように身悶えしているうちに、彼女はすっぽりと俺の中へ。完全にひとつになってしまった。
「ん?」
 ここは俺の部屋だよな? 見慣れた世界はあろうことか巨大化し、自分自身がやけにちっぽけな存在に思えた。そして身体がどうにもムズムズする。掻きむしろうと伸ばした先には腕がなく、そこには透明のうすい羽があった。
 それを震わせてみる。おっ、飛べるぞ。
 気をよくした俺は、小さく開いた部屋の窓から飛び出し、草花を求め飛び回る。
 ふとガラス窓に映った己の姿を見て理解した。
 天使がトウムを飲み込むとどうなるかって?
 想像の通りさ。
 てんとうむし、になってしまったわけだ。

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