定年退職

 小山功男、六十五歳。M商事株式会社に入社し四十余年。本日、定年退職を迎える。揺るがぬ愛社精神のもと、一筋に勤め上げた。うっすら浮かべた涙で滲んだ視界には、社員一同が立ち並び、勇退の花道が。営業部の内田が代表して、退職祝いの花束を小山に手渡した。照れ笑いしながら、花束を掲げてみせる。感極まり、言葉に詰まりながらの退職挨拶。会社への感謝、社員たちへの感謝を言葉に乗せた。挨拶を終え、深く礼をした小山に、大きな拍手と歓声が浴びせられた。
 悔いなきサラリーマン人生だった。
 積み重ねてきた年月を噛み締め、社員たちが両サイドに立ち並ぶ花道へと足を踏み出した。

〈営業部課長・木下の本音〉
 いやぁ、長年部長の座にすがり続けた小山がやっと去ってくれるよ。これで俺も部長に昇進できる。年功序列の制度に守られたポンコツ老害ジジイ。こいつと顔を合わせずに済むと思うと、胸がスッキリするよ。

〈営業部社員・島田の本音〉
 ロクに仕事もしないくせに高給取りのジジイ。俺たち若手が馬車馬のように働いても、薄給で賞与すらない。ジジイが貰ってた給料分、少しは俺たちに分配されるよな?

〈経理部社員・麗田の本音〉
 やっと小山のセクハラから解放される――加齢臭を撒き散らしながらすり寄ってくるの、耐えられなかったんだよね。ジジイを装ってるけど、下心は現役バリバリのエロおやじ。セクハラで訴えられずに定年退職を迎えられて、ほんとラッキーなジジイだよ。

〈広報部社員・長田の本音〉
 あぁ、小山から飲みに誘われる日々から卒業だ! 部署の人間から慕われてないからって、他部署の俺ばっかり誘いやがって。しかも安い居酒屋にしか行こうとしない。ケチでアル中の小山さん、おつかれさまでした!

〈清掃員・重田の本音〉
 わたしは知ってたよ。便器の周りを小便で汚していた犯人をね。あんただよ、小山。いつもいつも足元をビショビショにしやがって。掃除する身にもなりやがれ。これで男子便所の掃除も楽になるよ。

 花道を抜けた瞬間。小山は小さく呟いた。「なるほど」
 少しだけ間を置いて社員一同のほうへと向き直る。そこには満面の笑顔が並び、小山を惜しむ声が飛び交っている。誇らしげな表情を見せた小山は深く一礼し、オフィスをあとにした。

「ただいま」
 会社からの最後の帰宅。手には大きな花束。リビングから声がし、妻と娘が玄関まで出迎えてくれた。
「こんな立派な花束をもらえたよ。みんなからも退職を惜しんでもらえて」小山はわざとらしく笑ってみせた。
 夫の脱いだ上着を受け取りながら、「長い間、おつかれさまでした」と、妻が労った。

〈妻・美智子の本音〉
 ぐうたらな主人が万年家に居るなんて地獄だわ。どうせ家事を手伝う気もないはず。そのくせ不満ばっかり言うに決まってる。新しくお稽古でもはじめて、できるだけ外出するようにしなきゃ。

〈娘・夏菜子の本音〉
 お母さん、かわいそう。こんな辛気臭い親父がずっと家にいるなんて。早くに結婚して家を出ておいてよかった。こんなヤツと同居してたら息が詰まって死んじゃうところだったよ。

 小山は「そうか、なるほど」と漏らすと、用事を思い出した風を装い、妻に外出の意を伝えた。

 下りたシャッターが並ぶ町外れの商店街の一角。そこにひっそりと店を構える怪しげな雑貨店。店内に入ると老婆が出迎えた。
「ろくなことなかったろう?」
 小山がそれに呼応する。「まったくだよ」
「だから言わんこっちゃない。他人の本音が聞こえる薬なんて飲むもんじゃないよ。悪趣味にもほどがある」
「まぁ、後悔はしてないさ」苦笑いする小山。「さて、これからの人生、どう生きようか……」
 遠い目をしながら店内を見渡したとき、店の奥に立つ古びたドアが目にとまった。
「あのドアはなんだい?」
「あれかい? あの扉を開くと、そこには天国への道が伸びてるのさ」
「天国?」
 小山はその響きに強く惹かれた。もう、生きていてもロクなことがなさそうだ。いっそ天国にでも行って、隠居暮らしをしたいもんだ。
 ふらふらと誘われるようにドアの前に立つと、興味の赴くままドアノブをひねってみた。開かれた扉の向こうに景色が広がる。足元からは迷いなき一本の道が伸び、その遥か先には神々しい光が。
――あれが天国か。
 神に導かれるように、その足を踏み出した。その瞬間、目を覚ませと言わんばかり、グイッと腕を掴まれた。ふと見ると、老婆がか細い手を伸ばし、小山の腕を引っ張っていた。それを見た小山は表情を緩めた。
「俺は世間から必要とされていない人間。誰からも愛されず、誰からも求められていない。こんな嫌われ者の俺を止めてくれるのか?」
「ふん。止めやしないさ」
「では、なぜ?」
「こちとら商売してんだ。このドアは珍品。高価な代物なんだよ。タダで譲ってやるわけにはいかない」
 老婆は、顎でレジを指した。
「退職金全額で手を打とうじゃないか」

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