「おい、このバカ野郎! お前、そんな単純な計算もできねぇの? 死にてぇのか?」
「はぁ……」
「はぁ……じゃねぇだろ、このバカ! お前を見てるとイラついてくるんだよ。さっさとオフィスから出てって、新規の注文を穫ってこいよ!」
上司である吉川の罵声。もはや日常の風景。引っ切りなしに暴言が飛んでくる。男はそれを無視するように席から腰を上げると、脇にかけたカバンを掴んだ。
「こんな無能の中年野郎、誰が採用したんだよ。バカを世話してるこっちの身にもなってくれよ」
止む気配のない吉川の罵倒を背中で聞きながらオフィスをあとにした。。
「ちょっと、おっさん! アンタ、バカなの?」
「はい?」
新規の営業に向かおうと、乗り込んだ地下鉄の車内。ドアが閉まると同時に、背後から甲高い女の声が突き刺さる。振り返ると厚化粧の女が睨みをきかせていた。
「あの文字読めないの?」女が顎で指す。
「あっ、ここ、女性専用車両なんですね」
「ちゃんと見てから電車に乗れよバカ! 痴漢! 変態!」
「なるほど」
男は納得した様子でボソリ呟くと、女を無視するように隣の車両へと歩き出した。
「すみませんくらい言えねぇのかよ!」
女の罵声を浴びながら、ロングシートに腰掛ける女の群れを眺める。男を軽蔑する視線が一様に並ぶ。
ふと、ドア付近に立つ、よれたスーツの中年男性が目に留まった。どうやら彼も、気づかず女性専用車両に乗り込んでしまったようだ。居心地悪そうに佇んでいる。男と目が合うと、照れた様子でモジモジしてみせた。安っぽい仲間意識を感じたのか、車両を出ていく男に会釈しながら続いてきた。
「いやぁ、うっかりしてましたよ。それにしてもあの女、あんなに怒鳴り散らさなくてもねぇ……災難でしたね」
薄くなった頭頂部をポリポリと掻きながら、中年男性が言う。男は愛想笑いを返すと、何食わぬ顔で目の前の吊り革を掴んだ。
電車を降りて立ち寄ったコンビニエンスストア。レジの前に立ち、財布から小銭を探す。
「ちょっと待ってくださいね」
小銭入れの中の丸めたレシートを取り出そうとした瞬間、中身をぶちまけてしまった。カウンターの上を転がる小銭。店員も気まずそうだ。気づけば男の後ろには、会計を待つ長蛇の列。
「おい、バカ野郎! さっさと会計しろや!」
背後からは怒声。それを無視しながら、のんびりと小銭を集める。
「なんで店員が一人しかいねぇんだよ!」
客の怒りは男から飛び火し店員へと。会計の列に気づいたのだろう、別の店員がバックヤードから飛び出してきた。隣のレジに滑り込むと、「こちらのレジもどうぞ」と手招く。
後ろに並ぶ客たちが、ぞろぞろと列を崩して移動する。
「いい加減にしろよ、ボンクラ野郎!」
視線を向けると、隣のレジで会計をはじめた人相の悪い輩が、鬼のような形相で男を睨みつけている。何事もなかったように男は店員に会釈し、レシートを受け取った。
自動ドアを出て、外の空気を吸い込む。首の骨をポキリと鳴らし、男はひとり呟いた。
「よし。こんなもんだろう」
男は研究室に戻ると、白衣へと着替えた。近くにいた助手が声をかける。
「どうでした?」
「なかなか興味深かったよ」
「バカを演じることが、ですか?」
「そうだよ」
「それにしても博士、妙なことを思いつきましたね。天才の自分にとって不可解なことがある――それは、バカの実態だ――なんて言って。バカを演じることで、身をもってバカの気持ちを理解するなんて」
「実体験こそが正義さ」
博士はノートパソコンを開くと、バカを演じた結果をレポートにまとめはじめた。
「演じてみて身をもって知ったが、無能な人間ってのは、日々、あれほど罵声を浴びせられたり、見下されたりして生きているんだねぇ。人間ってのは実にやるせない生き物だと思い知ったよ。寛容さが足りてないねぇ」
「みんなストレスを発散したくて、どこかに当たり散らしてるんでしょう」
「その標的がバカってことか」
「弱肉強食の世界ですから」
「まぁ、これでバカの気持ちが理解できた。論文にもリアリティが増すことだろう。あっ、それはそうと――」
博士は手元に置いた機械を取り上げた。
「開発中のこの装置なんだが」
「殺人兵器ですね」助手が身震いする。
「そうそう。思い浮かべた人間をいともたやすく殺してしまえるこの装置。人道的な観点から実験ができず、研究をストップさせていたんだが――」
「まさか、実験しちゃうんですか?」
「さすがに人間で実験するのも――と気がひけていたが、人間以下の存在になら問題ないかと思ってねぇ」
「そんな生き物がいるんですか?」
博士は宙を見つめる。
「営業部の上司に、女性専用車両の発狂女、レジで睨みつけてきた輩――バカな人間に価値などない。別にこの世から消滅したところで何の支障もない。論文用に体を張った検証をするのが目的だったが、思わぬ副産物が得られたよ」
「怪我の功名ですね」
博士は装置を指でさすりながら、優秀な人間で埋め尽くされた世界を想像し、ほくそ笑む。そして、脳内に忌々しいバカたちの顔を思い浮かべると、ためらうことなく装置のスイッチを押し込んだ。