もう少しだけ

「また、売上目標未達かぁ?」
 部長の木村が凄んでくる。
「す、すみません……」
「もう少し根性見せれば、目標達成できるだろうが? なぜそれができないんだぁ?」
「は、はぁ。頑張ってるんですが――」
「うるせぇ! 言い訳はいいから、さっさと新規の契約、取ってこい!」
 部長が怒鳴りたくなるのもわかる。自分の不甲斐なさは自分が一番よく知ってる。いつだってもう少しが足りない人間だってことを。
 不動産の営業をはじめて12年。売上目標に手が届きそうになるも、あと一歩が足りず、未達を繰り返す日々。
「な、なぁ、後藤……」
 仕事を終えてオフィスを後にする同期の後藤を呼び止めようとしたが、気後れし、その手を引っ込めた。
 部長の説教で溜まりに溜まったストレスをどこかで発散したい。同期の連中とキャバクラにでも行って、憂さ晴らししたい。ただ、懐事情を考えると、気持ちが萎んでしまい、後藤に伸ばした手を引っ込めるしかなかった。
「もう少しだけ、給料が多けりゃなぁ……」
 同期入社のみんなは、それぞれに営業のコツを掴み、早々に出世していった。役職がついていないのは、ノルマをクリアできず低空飛行を続ける俺くらいのもの。貰っている給料の額にも大きな差があった。稼げない人間がキャバクラなんて、身分不相応にも程があるよな。
 せめてもの憂さ晴らしにと、周囲に聞こえるほど大きなため息を漏らした俺は、オフィスから颯爽と出ていく後藤の後ろ姿を見送った。

「いらっしゃい」
 小気味良い音をたてながら、手にした白い布でグラスを磨くマスターが、カウンターの中から声をかけてくれた。
「今日も散々だったよ」
 カウンターチェアに腰を下ろすなり、マスターに愚痴をこぼす。
「毎度、ご苦労さんですね」
 そう言いながら、マスターは俺のためにアルコール度数のやたら高いカクテルをつくり、うなだれる俺の前にそっと差し出した。
 カクテルグラスを口につけると、それをチビッと口内に含む。血液にアルコールが駆け巡るのを感じる。身体が一気に熱くなり、頭がぼんやりしはじめた。
 俺がこのバーに通う理由はただひとつ。信じられないほど料金が安い。今、口にしたカクテルも、一杯100円と破格だ。立ち呑みと比べても断然安い。
 金のない俺は、一杯目のカクテルをチビチビやりながら、愚痴を垂れ流す。そうして、お決まりの時を迎える。
「そろそろ閉店の時間なんで」
 腕時計に目をやると、午前一時前。酔っ払った俺は決まってこう言う。
「もう少しだけ居させてよぉ。俺の居場所はここしかないんだから」
 どうせ明日も似たような一日。なんの面白みもない。席を立つ気にもならず、もう少しだけ、もう少しだけと粘りながら、朝方まで居座ることもあった。マスターはそんな俺を追い出すこともなく、咎めもせずに優しく見守ってくれた。

 もう少しが足りずの俺の人生。それは営業成績だけに留まらなかった。
 もう少しだけ早起きしていれば、遅刻せずに済んだのに。もう少しだけ早く謝っていれば、友人を失わずに済んだのに。もう少しだけ彼女に優しくできていれば、こうして距離を置かずに済んだのに。もう少しだけ、もう少しだけ――それの連続だ。
 性懲りもなく、今日も会社に遅刻した。あの信号に引っかかりさえしなければ、ギリギリ間に合っていたかもしれないのに。もう少しだけ早くダッシュしていたら……。
 出社するなり、またしても部長の説教。その日は部下から詰められる場面もあり散々な一日だった。仕事を終え疲れ果てた俺は、いつも通りバーへと吸い込まれていった。酔うためだけの、ただただ安いカクテルに興じる。気づけばまた、時間を忘れ、チビチビやっていた。
「もう少しだけ居させてよぉ。俺の居場所はここしかないんだから」
「かしこまりました」
 マスターは困った表情ひとつ見せず、グラスを磨き続けている。
 そんなマスターを見て、ふと気になった。
「ねぇ、マスター? 自分で言うのもなんだけど、俺みたいな貧乏客が居着いちゃって迷惑じゃないの? 酒も一杯しか頼まないうえに、閉店時間を過ぎてもダラダラ居座っちゃって。大丈夫?」
「大丈夫ですよ」マスターは笑う。
「なんで?」
「実は、もう少しだけ、貰っちゃってるので」
「え?」
「日常生活を振り返ると、思い当たる節、ありません? もう少しだけ――って思うこと。恐縮ながら、お客さんから貰っちゃってるんです。もう少しだけを」
 一気に酔いが覚めた。思い当たる節しかなかったからだ。淡々と告白するマスターの笑顔が、急に冷徹に見えた。
 あと少しだけが足りない原因は、このバーにあったのか。これまですべて、このマスターに吸い取られてたってことか!?
「これほど安い料金でお酒を提供していたら、なかなか店を続けるのは難しいものです。だから、そこは持ちつ持たれつということで」
 マスターの目が鋭く尖る。まるで釘で打たれたように固まった俺の身体は、やがて小刻みに震えはじめた。
――今すぐ逃げ出さないと。
 震える太ももを何度も叩き、カウンターチェアから身を降ろす。安酒の代償を精算すれば済むだろうと思い、財布の中身を確認し、足らずの分を支払おうとした。
 するとマスターは俺の財布の中をチラッと覗き、「それっぽっちじゃ、まだまだ足りませんよ。もう少しだけ、ツケを払ってもらわないとね」
 財布の中身をカウンターの上にぶちまけ、俺は店を飛び出した。いつもと変わらないマスターの「またお越しくださいませ」を背中で聞きながら。

「クソッ!」
 無情にも目の前の電車は走り去って行った。
 夕方からの得意先との商談。あの電車に乗らなければ、約束の時間には間に合わない。もう少しだけ早く家を出ていれば――心の中に後悔が充満したその瞬間、脳内にマスターの顔が浮かびゾッとする。
 このもう少しだけも、マスターに吸い取られてしまったのか……。
 散々これまで安酒を楽しませてもらった。閉店時間が過ぎても居座り続けてきた。ストレスが爆発し、他の客の迷惑になるほど悪態をついた夜もあった。俺に文句を言う資格がないのはわかってる。だからといって、人の人生を身勝手に振り回していいはずがない。
 遅刻と叱責と謝罪しか待っていない商談。それでも、得意先へと向かわざるを得ない。次の電車が到着するまでの間、ベンチに座り、手元のスマートフォンで暇を潰す。すると、ニュースサイトに速報が流れた。
『私鉄M線、13時10分発の特急列車が脱線事故を起こし、多数の死傷者が出た模様――』
 13時10分発?
 腕時計に目をやる。時刻は13時16分。さっきの電車だ!
 もしも、もう少し早く家を出ていたら、俺はあの電車に乗っていた。そして今ごろ――
 ついさっき電車が走り去った方向へと視線を向ける。その先で起こっている惨状を想像すると頭がパニックになり、思わず吐き気を催した。
 放心状態のまま、駅をあとにする。どうせ復旧なんてしないだろう。得意先のもとへなど行けやしない。事情が事情だ。部長だって許してくれるはずだ。
 トボトボと歩きながらマスターのことを思い浮かべる。あの日、はした金を叩きつけ、店から飛び出した。気が動転していたからとはいえ、世話になりっぱなしのマスターへの不義理には違いない。店に行って謝ろう。現にこうして、マスターに奪われたもう少しだけに命を救われたんだから。
 その時、ポケットのスマートフォンがメールの受信を告げた。彼女の美咲からだ。
『会って話がしたい』
 距離を置いてから3ヶ月近くが経つ。先の見えない恋愛。彼女にも言いたいことがあるに違いない。このまま放置し続けるのは、さすがに無責任だ。会ってちゃんと話をしよう。
 そう決意した俺は、脱線事故のことを部長に伝え、体調不良を理由に事務所へは戻らなかった。自宅に帰り、軽くシャワーを浴びる。待ち合わせの時間に遅れないよう、予定よりもかなり早く家を出た。
「二人の関係について、どう考えてるの?」
「ど、どうって?」
「このまま煮え切らない態度を取るつもり?」
 苛立ちを隠せない様子の彼女。
「そりゃ、これからも美咲と付き合っていきたいと思ってるよ――」
「これからも――って、お互いもういい歳でしょ? 私だって早く結婚したいんだよ」
 彼女が結婚を望んでいることは知っていた。子供を欲しがっていることも。付き合った頃から、彼女は平凡な家庭に憧れを持っていたからだ。
「結婚のこと、真剣に考えてくれないんだったら、もう別れて欲しいの。ダラダラ付き合ってても意味ないし――」
「ちょ、ちょっと待ってよ……」
 結婚は、もう少しだけ給料があがってから、いや、もう少しだけ仕事が順調にいってから、いや、もう少しだけ歳をとってから、いや、もう少しだけ、もう少しだけ――
 気づけば俺の脳内を、もう少しだけが埋め尽くしていた。何かしら理由をつけて逃げてきた人生。それじゃダメだ。こんな俺なんかと結婚したいって思ってくれる恋人に対して失礼だ。
「もう少しだけ待ってくれ!」
 語気を強めて彼女に訴える。しかし、それを聞いた彼女は、間髪入れずに返してきた。
「もう少しだけって、いつまでよ?!」
 グラスを磨くマスターの顔が浮かぶ。どうすればもう少しだけの人生から解放されるかは、もうわかっている。だから俺は胸を張って彼女に答えた。
「ツケの支払いが終わるまで!」

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