娘の幸せを誰より願ってきた人生だった。娘の望むように生きて欲しい。それを全力でサポートしてあげることこそが、父の役目だと思ってきた。きっと、何不自由なく生きてこられたはずだ。幸せな人生だったに違いない。そして、これからも変わらず、ずっと娘の幸せを願い続ける。
と、思ってきたはずだった。理想の父親だと信じてきたはずだった。この日がやってくるまでは。
娘の結婚式前夜。
父である武雄は、明日のことを思い浮かべるたびに貧乏ゆすり。食事もロクに喉を通らない。妻からも「お父さん、ちょっとは落ち着いたらどうなの?」と、なだめられるも、「美咲が他の男のところへ行ってしまうんだぞ! 落ち着いてなんかいられるか!」おとなげなく怒りだす始末。
一年ほど前から娘は実家を巣立ち、明日には婿となる男と同棲生活をスタートさせていた。だから、突如として明日、家から娘が姿を消すわけじゃない。それは武雄も理解している。頭では理解できているが、惜しみない愛情を注いで育てた愛娘が、明日をもって完全に他の男のものになってしまう。それがどうにもやり切れなかった。
「そういえば……」
武雄はあることを思い出し、書斎へと急いだ。散らかった机の上にポツンと置かれた薬瓶。それを手に取り、まじまじと見つめながら思案を巡らせた。
あれは先週末の夜の出来事だった。
馴染みの立ち飲み屋。店内の小さなテレビに映るプロ野球中継に興じながら酒を飲んでいると、隣の酔客が話かけてきた。
最初は他愛もない話を続けていたが、気づけば娘の話題になっていた。
「実に素敵な娘さんをお持ちだぁ」
「まぁ、自慢のひとり娘ですね」
会ったばかりの酔客とは言え、娘のことを褒められて悪い気はしない。武雄は照れながら、首筋をポリポリと掻いた。
「ほう、来週には結婚ですか! それはめでたい。しかし、父親としては寂しくなりますなぁ」
「仕方のないことですよ。娘には幸せになって欲しいからねぇ」
その頃はまだ本心からそう思っていた。
それを聞いた男は、「ほんとに本心ですかねぇ? 素直になられたほうがよいのでは?」と武雄を煽る。熱燗の酔いがまわり、鼻先を赤らめる男はさらに続けた。
「もしねぇ、娘さんが嫁いでしまうことに耐えられなくなったときにゃ、ぜひこれを飲んで、心でも落ち着かせてくださいな。父親だってひとりの人間。案外、弱いもんですからねぇ」
男はカバンの中から小さな薬瓶を取り出すと、武雄に手渡した。
「僕に限っては、そういう心情になることはありませんな。心から娘の幸せを願ってるんだから」
口ではそう言いながらも、手にはしっかりと薬瓶を握りしめていた。
「精神安定剤か?」
どうにか心を落ち着かせたい。藁をもすがる思いで薬を一気に飲み干した。が、感情は荒ぶったまま。特に効果は感じられなかった。
「何も効きやしないじゃないか! あの酔っぱらい野郎、わけのわからないものをよこしやがって!」
武雄は空瓶を机の上に叩きつけた。
「ん!?」
机の横に置いてある姿見に映った自分を見て、腰を抜かしそうになった。
そこに映っていたのは、見慣れた自分の姿ではなく、あの日、「娘さんを僕にください!」と懇願してきた若者。そう、明日には婿となる男がそこには立っていた。
ついに頭がおかしくなってしまったのか。武雄はパニックを起こし、大声で妻を呼ぼうとした。が、あることを思いつき、瞬時に冷静さを取り戻した。
――この姿があれば、明日の結婚式を無茶苦茶にできるじゃないか。
よからぬ妄想を思い浮かべ、武雄はほくそ笑んだ。
結婚式当日は案の定、大騒ぎになった。父の姿がどこにも見当たらない。それに加え、生き写しと言わんばかり、姿形が全く同じ新郎が二人いるのだから。
武雄は騒ぎを起こし、結婚式をぶち壊してやろうと企んだ。新郎が二人もいる。どっちが本物の新郎なのか見分けがつかない。未知の怪奇現象。まともな結婚式なんて挙げられるはずもない。
「ふふふ、ざまあみろ」
武雄は笑いが止まらなかった。
街の小さな結婚式場。それほど稼ぎの多くない婿と、それを支える娘の給料。この日のためにと、貯金に精を出し実現させた、ささやかな結婚式だった。
参列者は親族と友人たち数人。騒動を耳にしたのだろう、着席した後もざわつきは収まらなかった。
チャペルの入り口で困惑する武雄の妻と本物の新郎。そして、新郎のモノマネをしながら、焦った様子を演じる武雄。そこにブライダルメイクを済ませた娘が駆けつけた。
「おぉ……」武雄は思わず声を漏らした。
あんなにも幼かった娘。立派に育ってくれるのかと心配した日々もあった。ケガや病気だけはしないでくれと案じ続けた。
注げる愛情はすべて注いできた。その娘が今、あまりにも美しい姿で、武雄の目の前に立っている。凛としたその姿は、ひとりの大人の女性そのものだった。
「どうしたの?」
不安そうに尋ねる娘に妻が言う。
「どこを探しても父さんの姿が見当たらないのよ……それにほら、見てごらんよ。裕也さんが二人いるんだよ。もう母さん、倒れちゃいそうだよ」
目を丸くした娘は、首を傾げながら二人の新郎を交互に見やった。
「なぁんだ」
頬を緩め安心した様子の娘は、「お父さん、式がはじまっちゃうよ!」と、武雄の手を取った。
「何言ってるんだよ、俺は父さんなんかじゃない! 裕也だよ!」
そう言い張る武雄に、「いいからいいから」と、娘はその腕を引っ張った。
新郎が二人いることに周囲はまだ納得してはいないが、ひとまず定刻通りに式がはじまった。
牧師の開式宣言。恐縮した足取りの新郎が入場する。それを眺める参列者たちは、好奇の目を向けていたが、厳かなオルガン曲が流れると、雰囲気が一気に引き締まった。
そして、開かれたチャペルの扉の前には、非の打ち所のない美しさをまとった花嫁が、もうひとりの新郎の腕に手を添えて立っている。
二人はその一歩を踏み出し、ゆっくりと一礼すると、ヴァージンロードを歩き出した。
参列者たちがひそひそと囁き合うなか、二人は噛みしめるように歩を進める。
武雄は娘に耳打ちした。
「なんで父さんだってわかった?」
娘も耳打ちする。
「簡単よ。だってお父さん、嬉しいとき、首筋をポリポリって掻くでしょ。花嫁姿の私を見た瞬間、ポリポリって。すぐにわかったよ」
それを聞いた武雄は赤面した。結婚式をぶち壊してやろうなんて子供じみたことを考えた自分が恥ずかしくなった。
「娘が立派に成長した姿を見て、嬉しくなっちゃったんでしょ」
からかう娘に、「バカ言え! 他の男のところに行ってくれて清々するよ」
本心とは似ても似つかない言葉が出た。
「今までありがとうね」
娘は小さく呟いた。
気づけば武雄の目からは涙が流れていた。
涙で霞む視界に映る娘の眼差しは、未来に待つ無数の幸せを見つめるように、ただただ真っ直ぐ先へと向けられていた。