そこは古ぼけた駅長室。小ぶりな石油ストーブが一台。必死に熱を振りまいている。
「まだ冬のはじまりだというのに、今年はずいぶんと冷えるなぁ」
年老いた駅長はつぶやいた。
チラッと窓の外を覗くと、月が煌々(こうこう)と照っている。雲のない夜の空は、月の輪郭を鮮明に映し出していた。
「駅長。今日の落とし物でーす」
構内の掃除を手伝ってくれている主婦の岡村さんが、薄い木箱を手に駅長室に入ってきた。
「もうそんな時間かい?」
「もうそんな時間よ。一日はあっと言う間。そろそろ今日もお仕舞(しま)いですよ」
この村もめっきり人が減ってしまった。若い衆は都会に出るし、顔見知りはあの世へ。賑やかだった頃の村を思い返すと、寂しさがこみ上げてくる。
「よいしょ」
机の上に置かれた木箱を手繰(たぐ)り寄せる。
人が減るにつれ駅の利用客も少なくなっているのに、なぜだか落とし物は減らない。
駅長としての日常業務の最後は、落とし物に目を通し、明らかに持ち主がわかるものは、帰り道に持って行ってあげる。村に住む人たちとのコミュニケーションの一環だ。
「すみません!」
勢いよく開けられたドアから、若い女子が駆け込んできた。
「落とし物、届いてませんか?」
「落とし物かい? 今、届いたばかりだよ」
駅長は木箱を指差す。
「ちょっと見させてもらってもいいですか?」
「どうぞどうぞ」
この村じゃ見ない若い女子。何か用事でもあってこの村に来たのだろうか。それにしても、うっすら見覚えがある顔だなぁ。駅長は失礼にならない程度に、彼女の顔を覗き込んだ。
「あった!」
彼女は嬉々(きき)とした表情を浮かべた。その手には指輪が握りしめられている。
「えらい大切なものを落とされたんですな」
「落とした……っていうか、捨てちゃった感じなんですけど」
「指輪を捨てるとは、穏やかじゃないなぁ」
彼女は反省した様子で語り出した。
「彼とはケンカばかりで、さすがに限界。お互いもうケンカはやめようって誓った矢先、また大きなケンカをしちゃって。『もう別れるから!』って叫びながら、この指輪、放り投げちゃったんです」
「そうかいそうかい。そりゃ、見つかってよかった」
若い恋にすれ違いは付きもの。相手のことをわかってあげたい気持ちと、相手にわかってもらいたい気持ちが衝突して、なかなか素直になれないもの。
「見つかってよかったです! ありがとうございました!」
安心した様子の彼女。
「わたしもちょっと言い過ぎました。彼に謝りに行ってきます」
笑顔でそれを見送った。彼女の後ろ姿を見て、駅長は遠い過去を思い返す。
都会に出て夢を叶えたかったあの日。過疎化が約束されたこの村で生きる将来なんて考えられなかった。当時の恋人にそれを告げると、彼女は激昂(げきこう)した。
「この村で徹(とおる)さんと結婚して一緒に過ごしたいの! なんでわかってくれないの? 当たり前の幸せが欲しいだけなのに!」
思えばケンカばかりしていた二人。もしかしたら、仲が良すぎたのかもしれない。
「俺はこの村を出るから!」
絶対に譲らないその態度に、彼女は涙ながら叫んだ。
「もう別れるから!」
あろうことか彼女は、薬指にはめた指輪を外すと、それを放り投げた。
「あっ」
思わず声が漏れた。頑張って働いて、せっかく買ったお揃いの指輪。それを放り投げるなんて信じられない。ひとつの恋愛を終わらせる覚悟を、彼女から感じ取った。
彼女に捨てられると思った。それが何より辛かった。この村にいる限り、孤独を背負って生きなければならない。
彼女に背を向けその場を去った。二度と振り返ることはなく、その足で村を出た。そして彼女がしたように、自分も指輪を投げ捨てた。
夢を追うとは名ばかり。彼女の影から逃げるために村を捨てただけ。指輪と一緒に。
結局、何も成し遂げることなく、負け犬のまま都会から村に戻った懐かしい過去。手を伸ばしても、絶対に届かない遠い過去。
駅長は目を細める。
「そうか。彼女は指輪を探しに戻ったのか。指輪は無事、見つかった。そして、その足で僕のところに駆けつけようとしていたのか」
彼女のことを信じ抜けなかった自分を悔やむ。あのまま、二人で幸せな人生を歩めばよかった。
「あの日、大切なものを落としてきたのかもしれんなぁ」
そこは古ぼけた駅長室。小ぶりな石油ストーブが一台。さっきまでと変わらず、必死に熱を振りまいている。
「あら、駅長さん、寝ちゃってるの?」
もう帰りますよと言いながら、主婦の岡村さんが駅長室に姿を見せる。
「ストーブも消しますからね!」
特に返事はなく、駅長室はしんと静まり返っていた。
次の朝、駅長が亡くなっているのが発見された。駅長室の椅子に座り、起きているのか寝ているのかわからない、いつもと変わらぬ姿のままで。
多くの村人たちが訃報を聞きつけ、駅に集まった。
岡村さんは、駅長の退勤を最後まで見届けなかった昨晩の自分を責め、泣き崩れた。
二度とその姿を見ることのない駅長室の中、岡村さんは駅長との懐かしい日々を思い返す。
「あっ」
見慣れた椅子の足元に、キラリと光るもの。
「駅長の落とし物かしら……」
拾い上げてみると、それは指輪だった。
生涯独身だった駅長。指輪なんてしているのは見たことがない。用事でここを訪れた人が落としたのかもしれない。
木箱に指輪をそっと入れると、駅長室のドアが勢いよく開いた。
「すみません! 落とし物、届いてませんか?」 走ってきたのか、肩で息をする青年の顔には、どこか駅長の面影が漂っていた。