「そうですね。撮影当時はヘアモデルとしてウチの事務所に所属していましたが、今は在籍してませんね」
古着をダラッと着崩した若い女が、ヘアカタログを無造作に放り投げた。
「その女性が今、どこにいるとか教えていただけませんでしょうか?」
「さすがに個人情報の問題がありますので、お答えできないですね」
私のことを厄介な人間だと思っているのだろう。愛想のない態度で突っぱねてきた。
「そこを何とか――」
「そう何度も頭を下げられましても……そういう決まりですので。申し訳ございませんが、お引き取りください」
あの日、あの時、あのヘアサロンを訪れたことがすべての始まりだった。
「写真で見るより、めちゃくちゃキレイですね」
彼は私にそう言った。その言葉が、どれほど私を高ぶらせただろう。
自分には縁のないものと思っていた出会い系マッチングアプリ。あのヘアサロンで変身を遂げたことをきっかけに、出来心からマッチングアプリを試してみることにした。
既婚者の私には、夫と二人の子供がいる。
そんな私の朝は、弁当づくりから始まる。朝食を済ませ、三人を家から送り出したあとは、掃除、洗濯、夕食の買い物。手の込んだ料理を作らなければ不満を漏らす夫のために、料理の手は抜けない。夕食の下ごしらえを済ませパートに出る。子供の将来のことを考えると、夫の薄給だけでは備えに不安があった。
パートのくだらない人間関係に辟易しながら帰宅。休息する間もなく、洗濯物を取り込み、下校した子供を迎える。部活後の汚れたユニフォームは脱ぎっぱなし。それを鷲掴みにし、洗濯カゴに放り投げると、ため息をひとつ。夕食の準備を済ませ、風呂を沸かす。夫が帰ってきたら配膳。食事が終われば洗い物。取り込んだ洗濯物を畳みながら、またしても深いため息をつく。
そうして気づけば一日が終わっていく。朝がくればまた、同じ一日が待っている。私の人生はその繰り返しだ。
「もしよければ、僕と付き合ってもらえませんか?」
はじめて会ったその日の帰り道、彼は私に告白してきた。真摯な目で私を見つめる彼。許されない恋へと足を踏み入れることに、緊張感と罪悪感が混濁する。さすがに戸惑いはしたが、気づけば言葉がこぼれていた。
「あっ、こんな私でよければ」
25歳の彼は、恋人がいないことに焦りを感じているのかもしれない。マッチングアプリを使ってまで出会いを求めているのがその証拠だ。20代前半の――いや、20代前半に見える私との恋愛は、さぞかし希望が持てたに違いない。
その日は、彼がつないでくれた手の温もりを感じながら、帰路についた。
彼とのデートも回数を重ね、ついにその日が訪れた。彼がホテルに誘ってきたのだ。
最後に夫と夜の営みを持った日のことなど、記憶にもないくらい遠い過去。自分が女であることを忘れてしまいそうになるくらい、男女の刺激とは無縁の日々を送ってきた。そんな私の身体を、彼は求めてきた。
彼と腕を組んだまま、ひと目を気にするようにラブホテルへと忍び込む。私の暮らす街からはずいぶんと離れた繁華街のホテルなのに、なぜか知人の目を意識し、警戒する自分に吹き出しそうになった。
まるで古城のようなホテル。恋愛の没入感を冷まさぬよう、隅々まで行き届いた装飾。エントランスの妖艶なライトに照らされた私が鏡に映る。素性を隠したまま彼を虜にする魔性の女――いや、魔法で美しさを手に入れた魔女が、そこには立っていた。
部屋に入ってからも彼は紳士的だった。性欲のままに襲いかかってくることもなく、落ち着いた様子で脱いだ服をハンガーに掛ける彼。コンビニで買ったお酒やおつまみを、テーブルに並べてくれた。
「よかったら、先にシャワー浴びてくる?」
女性のエチケットへの配慮も欠かさない。そういった細やかな部分に、いちいち好感を持ってしまう。この後に待っているだろう彼との濃密な時間を想像すると、身体のあちこちが熱くなってきた。
まるで世間知らずな少女のような足取りで洗面所に向かうと、鏡に信じられないものが映っていた。
「えっ?!」
彼に気づかれてはならないと、咄嗟に声を押し殺す。
そこには20代前半の瑞々しい女ではなく、50代前半の疲れ切った女が映っていた。
魔法がとけた?!
このままじゃマズい。彼に見られるわけにはいかない。正体を知られたあとの展開を想像すると足が震えた。
とにかくこの場から姿を消さなくては。
私は小走りで部屋に戻ると、荷物を鷲掴みにし、マフラーで顔を覆いながらドアへと向かった。
「どうしたの?」
枕元にある照明の操作盤をイジっていた彼を置き去りにするように、「ごめんなさい。急に体調が悪くなって――」そう言い残し、私は部屋を飛び出した。
「今日はどんな髪型にしますか?」
変わらない日常に疲れていたのだろう。あの日、私は冒険してみた。どうしてもイメージを変えてみたくて。
「あの……こんな感じで」
勇気を振り絞り、ヘアカタログの中で微笑む若い女性を指差してみた。
――見た目のレベルが違うし、年齢もかけ離れてるんだから、同じような仕上がりになるわけないだろ。自分のスペックをわきまえろよな。
そんな風に思われたらどうしよう。恥ずかしくて生きていけない。そもそも美人なモデルばかりが並ぶヘアカタログから、希望のスタイルを選ばせるなんて酷すぎる。心の中で嘲笑されるのを避けるため、これまではヘアカタログを利用せず、口頭で希望を伝えてきた。
ただ、私はもう、おばちゃんだ。もっとズケズケ行ってもいいはずだ。腹をくくった私は、おばちゃんだからこそ使える武器を味方に、ヘアカタログの中でもとびきり目を引くかわいい女性を指差した。
「この子みたいな髪型にしたいなぁ。サービスで、顔もこの子みたいにしてくれてもいいんだけどね」
決まった。おばちゃん流のキツい冗談だ。
ところが担当のスタイリストは、愛想笑いするわけでもなく、柔らかい表情のまま、「かしこまりました!」と爽やかに言ってのけたのだ。
そして、スタイリングが終わったあと、鏡に映っていたのは、カタログから指定した女性の髪型、そして顔。冗談が現実になった。そう。私は、ヘアカタログのモデルとそっくりに変身したのだ。
「こまめなメンテンスが必要なスタイルですので、形が崩れてきたらまたサロンにお越しくださいませ!」
なるほど。髪が伸びれば整えに行かなくてはならない。顔も同じなんだ。定期的に整えに行かなくては、理想のスタイルを維持できないってわけだ。美容整形を受けたわけじゃないから、当然といえば当然だけど……。
彼をホテルに置き去りにした翌日、再びサロンを訪れたが、例のカタログは既に処分されていた。ヘアスタイルは流行りものだ。新しいカタログが出れば差し替える。古いカタログの存在は、サロンのイメージダウンにもつながってしまう。
インターネットの書店や街の古本屋を探し回ってみたが、どこにも見当たらなかった。編集社のバックナンバーを探してみても、既に売り切れ。在庫もない。もはや入手が困難な状態だった。
ヘアカタログのあの女性と同じ顔に仕上げてもらわなきゃ、彼と会うことができない。それは、彼との恋愛の終わりを意味する。現実から逃げ出して、女として輝けるチャンスだったのに。
最後の望みだったヘアモデル事務所への突撃。無愛想な女性スタッフからの無情な門前払い。最後の望みも容赦なく打ち砕かれてしまった。
もう二度と、あの顔を手にすることはできないのだろうか。
思えばつかの間の幸せだった。味気ない生活から解放される瞬間は、私に潤いを与えてくれた。でも、待っていたのは現実。逃げることのできない宿命。家庭、年齢、そしてこの顔。私は平凡な主婦なのだ。身の程を知れ。
駅前のロータリーにあるベンチに腰掛け、放心状態のまま辺りを眺める。空はすっかり暗くなり、仕事帰りのサラリーマンや、デートを楽しむカップルの姿が目立った。
「そういえば――」
このマッチングアプリは、結婚を見据えた真剣な出会いも探せるが、『今、会いたい』といった即席の出会い探しにも使えるらしい。
愉しみを奪われた私は自暴自棄になり、アプリの登録情報を削除した。そして、新たなアカウントを作成した。
そこには、本当の私の情報を登録した。顔もステータスも素性もすべて。そして、『誰か会える人いませんか?』と、つぶやいてみた。すると、数分も経たないうちに、アプリがメッセージの受信を告げた。
『よければ会いませんか?』
私の寂しさを救ってくれる返信がそこにはあった。返信をくれた男性の顔写真をタップする。拡大された顔写真を見た私は、思わずスマホを落としそうになった。
そう。先日まで私に幸せを運んでくれていた彼からの返信だったのだ。
「私みたいな年上の女で大丈夫?」
私はもう、あなたが望むヘアモデルのような女じゃない。ずっとあなたを騙してきた中年の主婦。あなたが愛した女の面影など、どこにも残っていない。
罪悪感にさいなまれながら返信を待っていると、『付き合っていた子に逃げられちゃって……やっぱり若い子はダメですね。僕も自分の好みに正直になろうと決めたんです。そう――年上の女性が好きな自分を認めて生きていこうって』
そうなのか。彼も年上好きという一面を押し殺して恋愛してきたんだな。自分の偏愛に葛藤しながら、正直な恋愛をしてこなかったんだ。
そんな彼の苦労を思うと、途端に彼のことが愛おしくなり、また身体のあちこちが熱を帯びてきた。
「よかった。安心しました」
『ちなみに、今、どちらに?』
「今、M駅のロータリーに」
「僕もすぐ近くにいるので、よければ今から会いませんか?」
「ぜひ!」
私はベンチから立ち上がり、乱れた髪を整える。
もう取り繕わない。もう偽らない。ありのままの自分を解放してやる。
化粧直しに覗き込んだ手鏡に映る自分の顔が、夜の闇を受け、やけに妖艶に見えた。
私、平凡な主婦から魔女に――いいえ、美魔女に変身します。