ひとりの青年が、神様のもとを訪れて言った。
「お願いです。僕の願いをひとつだけ叶えてください」
神様は慈愛(じあい)を瞳に宿らせ、彼を見つめた。
青年はまだ高校生。まだ見ぬ未来と可能性が溢れるはずの彼は、自らの命を絶った。死を選ぶしかないほどの、残酷なイジメが原因で。
「どんな願いを叶えて欲しいのですか?」
天国という場所は、アニメによく出てくる、雲の上のようなところではなかった。乳白色の平坦なプレートが延々と続き、まるで海の向こうを臨むように、はるか先はぼんやりと霞(かす)んでいた。
その世界は夜明けを思わせるほどに薄暗かったが、目の前に立つ神様だけが光を放ち、周囲を照らしていた。
「イジメたヤツらを殺(あや)めて欲しいのですか?」神様は言った。
「いいえ。違うのです」
「ほう? 意外ですね」
イジメの主犯格は、同じクラスの男子。遠山という名の生徒だ。
ヤツは素行の悪い不良というわけではなかった。資産家の息子。異性からも人気の整った容姿。勉強もできてスポーツも万能。そして、狡猾な性格から、人心(じんしん)掌握(しょうあく)に長けたタイプだった。
遠山の標的がなぜ僕だったのかはわからない。ただ、ヤツはクラスのみんなが僕を遠ざけるよう、そして時にイジメに加担するよう仕向けた。だから僕は完全に孤立していた。
誰も口をきいてくれない。目すら合わせてもらえない日々。私物が盗まれたり壊されたりすることは日常茶飯事。生きる辛さと死ぬ怖さを天秤にかければ、迷いもせず死を選んでしまえる精神状態が続いていた。
「クラスメイトだった女子の願いを叶えてあげたいのです」
「君の願いではなく、クラスメイトの女子の願いを?」
「はい」
孤独な日々にも、かすかな光はあった。それは、神崎さんの存在だった。
イジメに加担することを拒めば、次のターゲットが自分になるかもしれない。それに怯え、みんなは遠山に従うしかなかった。でも、神埼さんだけは違った。
誰も見ていない場所では、イジメがなかった頃のように話しかけてくれた。筆記用具を壊されて、満足に授業を受けられない僕に、シャーペンや消しゴムを貸してくれたりもした。
何より嬉しかったのは、会話の合間に笑顔を見せてくれたことだ。全てがモノクロに見える教室の中で、彼女だけが色を持っていた。
「清い願いですね。わかりました。彼女の願いを叶える権利を授けましょう」
そして僕は、彼女の潜在意識へと話しかけた。相手が僕だと悟られないよう。神様の口調を真似るようにして。
「あなたの願いごとを、ひとつだけ叶えてあげましょう」
「誰?」
「私が誰なのかは気になさらないでください。ただ、あなたに感謝の気持ちを抱く者が、あなたの願いを叶えたがっている。さぁ、願いごとをおっしゃってください」
「感謝の気持ち?」
「詮索は無用です。私のことを信じ、願いごとを伝えてください。その願いはきっと叶えられることでしょう」
「では、願いをひとつだけ」
「どうぞ」
「わたしの恋を叶えて欲しいのです」
「好きな人がいるのですね」
「はい」
「もちろん。あなたが望むのなら」
「では、わたしの恋を叶えてくださいませ。同じクラスの遠山くんに恋するわたしの想いを」
酷(ひど)く打ちひしがれた青年が、再び神様のもとを訪れて言った。
「彼女の願いを叶えるのは、やめにしました。ロクでもない願いだったからです」
神様は彼に同情した。
唯一の味方だと思っていた彼女が、まさかイジメの主犯格に恋心を抱いていたなんて。
青年は神様に詰め寄り叫んだ。
「遠山を殺めてください。僕を自殺に追いやったヤツを、今すぐ殺めてください。あんな下等動物は生きていても意味がない。今すぐ世界から抹殺(まっさつ)すべきです。この願いはクラスみんなの願い。皆が皆、彼には消えて欲しいと願っているんです」
「彼女もそう願っているのですか?」
「えっ?」
「少なくとも、彼女は彼が消えることを望まないはず。あなたの願いを叶えてしまうことは、彼女の願いを葬(ほうむ)り去ってしまうことになる。それでもいいのですか?」
青年は彼女の笑顔を思い返し、涙した。彼女の存在だけが生きる理由だった。そんな彼女の願いを奪い去ってもいいものか。
自分はもう死んでいる。生きる人たちの邪魔をする資格などない。そう思うと、込み上げてくる嗚咽は、ますます大きくなった。
「わかりました」神様は、青年を慰(なぐさ)めるように言った。
「あなたの願いを叶えてあげることはできません。ただ、あなたが自ら願いを叶えられるよう、時間を戻して差し上げましょう。あなたは元の世界に戻り、その手であなたの願いを叶えなさい。たとえそれが、憎き存在を殺める行為であったとしても、目をつむりましょう」
気づくと青年は自分の部屋にひとり。ロープを手に立っていた。天井に設置したフックに目をやると、自殺に踏み切った瞬間の記憶が蘇った。どうやら本当に時間が戻ったらしい。
青年は「よし」と呟き、ロープをベッドの上に放り投げた。
僕は部屋を飛び出した。キッチンで夕食の準備をする母。丸々と太った飼い猫の腹。全てがいつも通りの光景だった。
あまりの勢いで玄関に向かう僕の背中には、「どこ行くの?」という母の声が投げつけられたが、返事もせずに駆け出した。
僕は神から権利を得た。それを果たすために、再びこの世に生を授かったんだ。他にやるべきことなどない。揺るぎない目的は、どこまでも僕の背中を押してくれる。
生きていることを実感しながら、ひたすらターゲットを目指して走る。相手と対峙したときに、どんな言葉をかけようかと考えながら。
そしてその瞬間は訪れた。
足が震えている。怖いのか? 勇気を振り絞ることに怯えているのか? 一度は死ぬことができたくせに? 行け。行け! さぁ、願いを叶えるんだ!
「あの……僕、神埼さんのことが好きなんだ。付き合ってもらえないかな……」
一瞬にして全身が熱を帯びた。焼け焦げてしまうのではないかと心配になるくらいに。
やったぞ。僕の願いは叶った。それは、彼女に気持ちを伝えること。どうせ彼女は遠山のことが好きなんだ。だったら結果は明白だ。だから、結果なんてどうでもよかった。僕の願いは、勇気を持って彼女に気持ちを伝えること。ただそれだけ。そして見事にそれは叶った。
心にへばりついていたヘドロのようなものが、一気に剥(は)がれ落ちた。そうか。辛(つら)ければ逃げればいいんだ。バカ正直に向き合うことだけが全てじゃない。そして、願いを叶えるために挑みたければ、こうして挑めばいい。でも、生きていなきゃ願いは叶えられない。そうか。命というものは、こんなにも尊(とうと)いものだったのか。
ごめんなさい、他に好きな人がいるの。という予定調和な彼女からの回答。それでも彼女の表情はどこまでも優しかった。
夕日に染まる彼女。神崎さんには死ぬまで幸せでいて欲しい。心の底からそう願った。
とぼとぼと歩く青年の潜在意識に神様が語りかけた。
「よく頑張りましたね。無事、願いも叶えられたことですし、天国へと戻ってきますか?」
青年は空を見上げる。いや、天国を見上げて言った。
「もうひとつだけ願いを叶えてもらえませんでしょうか?」
「ほう? どんな願いですか?」
青年は神に届くような声で叫んだ。 「このまま生きていたいです!」