雨音と旋律

 あてもなく旅を続ける若い男が、とある村に立ち寄った。ひっそりと静まり返るその村は、淡い雨靄に包まれていた。
 びしょ濡れになった男を見かねた老婆が声をかけ、男は老婆の家に招き入れられた。
 手渡されたタオルと毛布。濡れた体を拭いたあと、男は毛布で冷えた体を包んだ。
 老婆が湯気の立つお茶を差し出す。男はそれに口をつけると、じんわり体が温まっていくのを感じた。
 小気味よく雨音が鳴る。ひとしきり続いた旅の話。それを聞き終えると、老婆は何かを思い出すように話しはじめた。

 この村は呪われた村でねぇ。鬼がやってくる村だったのさ。雨が降り続いてくれる限り、鬼がやって来ることはなかったんだけど――晴れの日には恐ろしいことが起こった。
 鬼がやってきて、村人を喰ってしまう。
 村中を這い回り、お目当ての村人を見つけるや否や、ダラダラとヨダレを垂らす鬼。大口を開けたかと思うと、一飲みにしてしまう。腹がいっぱいになるまで、村人を喰らっていく、実に恐ろしい鬼なのさぁ。
 ただ、鬼は雨を嫌うらしく、いや、正確には雨音が耳障りなようで、雨が降ると姿を見せなかった。だから、雨の日が続けば、村人たちは鬼に怯えなくて済んだんだよ。

 そうはいっても天気なんてものはお天道様の機嫌ひとつ。都合よく雨の日ばかりが続くわけがない。望まれない晴れの日は必ずやってくる。
 そんな村を、ひとりの少女が救ってくれたのさ。特殊な才能を持った、ひとりの少女が。
「特殊な才能?」男は尋ねた。
 そう。彼女には、絶対音感があったのさ。
 絶対音感の持ち主は、この世の音すべてが音階として聞こえるらしいじゃないか。当然、雨音にも音階がある。だから彼女は、雨音が奏でる音階を記憶し、それをピアノで奏で続けたんだよ。まぁ、凡人には到底真似のできないことだねぇ。
 するとどうだろう。晴れの日でも、彼女のピアノの旋律が響く限り、鬼が姿を見せることはなくなったんだよ。
 村の皆は彼女のことを神様だと崇めたさ。もう、誰ひとり鬼の犠牲にならなくて済むと。
 ところが――
 そこまで語ると、老婆は手にしたお茶を、ひと口だけ口に含んだ。

 ある日、若い男が旅の途中にこの村に立ち寄ってねぇ。村人から少女の存在を聞いた途端、彼女に興味を持ちはじめ、会わせてくれとせがんだのさ。
 なんだか嫌な予感がしたねぇ。でも、せっかく迎え入れた旅人を無碍に扱うわけにもいかない。ある雨の日の昼下がり、彼女のもとへ旅人を連れていったのさ。
 まぁ、若い男女のことだから仕方があるまい。二人は互いに惹かれ合い、仲を深めていったんだよ。
「恋に落ちてしまった、ということですね」
 そう。旅の男も、別に悪い奴じゃなかったから、村の皆も特に気にはしていなかった。何より、恋をすることで少女自身も幸せそうだったからねぇ。
 それがまさか、あんなことになるとは――
「何が起きたんです!?」
 男は背筋が冷えるのを感じ、くしゃみをひとつした。

 鬼を寄せつけないため、晴れの日の彼女は雨音を奏でなければならない。だから二人が会えるのは雨の日だけ。
 若い二人にとって、そんな制約は苦しかったんだろう。あろうことか旅の男は、晴れの日に彼女を家から連れ出し、遊びに出かけてしまったのさ。
 ピアノの音色がないことに村人たちは恐怖した。鬼がやって来るんじゃないかって。そして、それが旅の男の仕業だと知ると、皆、怒り狂ったよ。
 その日、忘れかけていた惨劇が再び巻き起こったのさ。皆の不安は的中し、鬼が村にやってきてしまったんだよ。
 晴れているのに生贄を喰らえない日々に苛立っていたのか、はたまた空腹が限界を迎えていたのか。その日の鬼は見たことのない形相で、次々と村人を喰らっていったのさ。おぞましいあの光景は、死ぬまで脳裏から消えやしないねぇ。
 少女と男は、晴れの日という泡沫の時間を満喫し、夜には村に帰ってきた。村人が鬼に食い荒らされたあとだとも知らずに。
 二人は村の惨状を目にし、しばらくの間、呆然と立ち尽くしていたよ。
 そのあと、次の悲劇が起こったんだ。
「まだ悲劇が?」
 あぁ。残された村人たちは、旅の男がしたことを許すわけがない。彼らが帰ってきたことを聞きつけた村の連中は、一斉に二人を取り囲むと、手にした鈍器で男を撲殺したんだ。
「まさか……」
 悪いことかい? その男が村にやって来なければ、少女をたぶらかさなさければ、村人の犠牲はなかったんだ。どれだけの命が男のせいで失われたか。
 ただ、その日から、鬼はこの村にやってこなくなった。
「晴れの日も、ですか?」
 そうさ。雲ひとつない晴れの日でも、鬼がやってくることはなかったなぁ。

 恋人を殺されてからというもの、少女のピアノの旋律は変わってしまった。雨音のような繊細なものから、際限なく続く無機質な単音へと。村にはずっと、彼女が鳴らす粒のような単音が響きはじめたのさ。
 彼女のことが心配になり、こっそり見にいったよ。すると……彼女は泣いていた。
 幼い少女のことさ。大切な人を失った悲しみに耐えられるわけもあるまい。頬を伝う涙は彼女の足元へと落ち、ポタン、ポタンと、切ない音を響かせていた。
 そう。彼女は雨音ではなく、涙の音をピアノで奏でていたんだなぁ。
 その音にどんな効力があったのか、あれ以来、村人が鬼を目にすることはなかった――彼女が命を絶ってからも。
「彼女は――」
 そう。きっと悲しみに押しつぶされてしまったんだろう。自らその命を絶ってしまったんだよ。
「なんて悲しい出来事だ……」

「おや? 雨があがったようだね」
 老婆は呟きながら窓の外を見た。
「貴重な村のお話を、ありがとうございました」
「雨音は満喫できたかい?」
 男は軽く微笑み、礼を言いながら、飲み干した湯呑を老婆に手渡した。
 雨があがったからか、村が賑わいはじめた。野太い男の声が飛び交う。あちこちで叫んでいるようにも聞こえる。
「晴れの日に鬼がやってくることはなくなったんだけど――」
 老婆はそこで言葉を切ると、俊敏な動きで椅子から立ち上り、玄関先へと飛び出し叫んだ。
「お前たち! やっておしまい!」
 薄ら笑いを浮かべながら老婆が男を振り返る。そして、血走った目で男に言った。
「旅人は村に祟りを持ち込む悪しき存在。お前さんが足を踏み入れたこの村は、晴れの日になると、村の連中が旅人を殺めることで知られる呪われた村さ」
 男たちの狂った怒号が老婆の家へと迫る。腹をすかせた鬼のような形相の暴徒たち。その狂気が家の中へと一斉になだれ込み、さっきまでの静けさを完全に飲み込んでしまった。

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