木こりの男は、手にした三本の斧を手に、家には戻らず再びあの泉に戻った。意を決した男は、三本の斧を泉へと放り投げた。
祈るようにして水面の波紋を見つめる。やがて、水面からぽこぽこと音が鳴り、ついさっき、金の斧と銀の斧を授けてくれた美しい女神が姿を現した。
「また、斧を落としたのですね? あなたが落としたのは、鉄の斧と金の斧と銀の斧、この三本ですか?」
男は震える声で答えた。
「あっ、その……。斧を落としたのではありません」
「え?」女神は目を丸くする。
「わたしは斧を落としたのではありません。落ちたのはわたし自身です。つまりは……恋に落ちてしまったのです――女神さまに」
男はしどろもどろに告白すると、顔を真っ赤にした。
「なるほど。わかりました」
それを聞いた女神は、泉からふわっと飛び上がり、男のそばへと移動した。そして、男を抱きしめた。
まさか女神が願いを聞き入れてくれるなんて思ってもみなかった男。女神の細い腰へと遠慮がちに腕をまわした。そして、長い髪から漂う花のような香りを、鼻腔いっぱいに吸い込んだ。
「あなたのこと、好きになってもいいかしら?」
女神の甘い囁きに、男の膝はガクガクと震えた。
至福の時よ、永遠に終わるな。このまま時間よ止まってしまえ。男は心の中で叫んだ。
そんな男に、女神はそっと囁いた。
「他に好きな人はいますか?」
「えっ?」口ごもる男。
「いるの?」
男は何かを振り払うように答えた。
「いないよ。いるわけがない!」
脳裏に浮かぶ妻の顔。木こりとして半人前の頃から自分を支えてきてくれた。裕福とはほど遠いこの生活にも、文句を言わずついてきてくれた妻。お世辞にも美人とは呼べないが、愛らしい妻が男の脳内で微笑みかける。
男はそれを欲という炎で焼き払った。俺は女神を手に入れた。正直者の俺は、今こうして女神を抱きしめている。かまうもんか。
女神を抱く腕には一層の力が込められた。
男の返事を聞いた女神は「うそつき」と吐き捨てた。そして、男の首根っこを掴むと、ズルズルと泉の中へと引きずり込んだ。
悲鳴をあげる男を飲み込んだ泉は、やがて穏やかさを取り戻し、何事もなかったように静まり返った。
「あら? もうこんな時間」
薪(たきぎ)を切り落としにいった夫が帰ってこない。心配した女は、様子を見に行くことにした。
「どこかでケガでもしてなきゃいいけど」
女は目の前に現れた泉の前で足を止める。
「まさか、ここに落ちちゃったわけじゃないでしょうね」
そっと水面を覗き込んでみる。
「きゃっ!」女はのけぞった。
ぽこぽこと音をたてはじめた泉。やがて、泉の中から、ひとりの美しい女神が現れた。
しかも、女神の両側には、タイプは違うが端正な顔立ちの男がふたり。うっとり見つめてしまうほどの男前たちだ。
「あなたのご主人は、うっかり足を滑らせてしまい、この泉に落ちてしまいました。ちなみに、あなたのご主人は、高身長で涼しげな目元が特徴のこの男か、それとも高収入でワイルドなルックスのこの男、どちらでしょうか?」
女神は両サイドの男たちを交互に指差した。
女の脳裏に、愛嬌はあるが決して男前とは呼べない木こりの夫の顔が浮かぶ。無骨にも木こりの仕事に精を出す姿も。
少し考えたのち、女は答えた。
「わたしの夫は、ただの冴えない木こりです」
女神はニッコリと微笑んだ。
「あなたは正直者ですね。そんなあなたには、ふたりの男たちを差し上げましょう」
男たちは池から飛び出し、女を挟むようにして立つと、そっと優しく腕を絡めた。
味わったことのない優越感に、高揚する女。
夫の素朴な笑顔が思い浮かんだが、それを欲という炎で焼き払った。
「ごめんなさないね」
ポツリ呟くと、女は男たちの顔を見上げ照れ笑い。そのまま森の奥へと姿を消した。