転職

 さっきからあの車、ずっと尾(つ)けてきてやがる。わかりやすい攻め方だな。そんな見え透いた手に乗ると思うか。
 柴崎は車を減速させ、大通りから細い路地へと潜り込んだ。地の利はこちらにある。さすがに深くは追って来られまい。
 バックミラーに映る追跡者も、柴崎の車に続き、慌てて路地へ。しかし、入り組む小路に苦戦した挙げ句、バックミラーからその姿を消した。
「ふん。ど素人が!」
 威勢よくハンドルを小突きながら、柴崎は勝利に吠えた。
 と、その時だった。車内に軽妙なリズムが響いた。金属を小刻みに打つ音。どうやら、ピストルの弾が車体を狙っているらしい。
「チッ、別の敵が現れたか。そんなヤワな攻撃が効くとでも思ってやがるのか?」
 音にあわせ軽妙に体を揺らしながら、柴崎は鼻歌を口ずさむ。
 パッと見た感じ、この車は一般的な乗用車。しかし、これの正体は防弾車だ。重装甲タイプだから、ピストルやサブマシンガンはおろか、重機関銃の攻撃にだって耐えられる。
 さすがに弾の無駄遣いだと気づいたのか、ピストルの音が鳴りやんだ。後部座席に異常がないことをバックミラーで確認し安心する。
 視線を前に戻した瞬間、柴崎は全力でブレーキを踏んだ。目の前にいきなり子供が飛び出してきたからだ。
「おい! 危ないじゃないか!」
 パワーウインドウのスイッチを押し込み、開いた窓から顔を出して叫ぶ。
 ん? 子供の様子がおかしい。車に轢(ひ)かれそうになったにも関わらず、たいして驚きもしない。何事もないように突っ立っている。
「しまった!」
 慌てて窓を閉めようとしたが遅かった。開いた窓から、何かが車内に投げ込まれていた。
 鼻をつく臭いからして、睡眠ガスを放出する手榴弾か何かに違いない。
 柴崎は慌てて車から飛び出すと、リアドアを開け、後部座席へと手を伸ばした。
――俺には守らないといけないものがある。何があっても守り抜く。それが俺の使命なんだから。
 慎重にそれを抱きかかえると、その場に車を乗り捨て、全力で走り出した。

 どこの建物から狙われているかわかったもんじゃない。スナイパーのスコープで覗かれる自分の姿を想像する。柴崎はうまく射線を切りながら、慎重に道を選んだ。
 少し先に見える十字路。その角で怪しい人影が揺れた。それは一瞬の出来事だったが、柴崎は見逃さなかった。
――あの角で待ち伏せしてやがる。
 そう読んだ柴崎は踵(きびす)を返し、来た道を引き返した。
 柴崎の行動に気づいたのか、潜んでいた怪しい影が飛び出してきた。背後の様子を確認しながら走る柴崎を、屈強な男ふたりが全力で追ってくる。
 柴崎は守るべきものを、自身の体に包むように抱きかかえた。次の瞬間、背後で轟音が響き、全身に衝撃が走った。追手に銃で撃たれたらしい。
 こういう事態を想定し、高性能の防弾チョッキを身にまとっている。とは言え、その衝撃はかなりのものだ。さすがの柴崎も、よろめき体勢を崩した。
――クソッ、あともう少しだ。
 極度の緊張が体を疲労させる。いつ命を落とすかわからない。自分の命ならまだしも――柴崎は自らを鼓舞し、体勢を整えると、再び走り出した。

 商店が立ち並ぶ通りの角を曲がるとき、あるものが目に留まった。何かあったときの備えにと、それを手に取り筒状に丸めると、ヒップポケットにねじ込んだ。
「あの……すみません」
 走る柴崎を腰の曲がった老婆が呼び止めた。無視しようと思ったが、柴崎の良心がそれを拒んだ。
「どうしました?」
「ちょっとお時間いいですかね?」
「見ての通り急いでるんですが……少しの時間なら」
「ありがたい」
 そう言うと、老婆は安心したのか、表情を緩めた。
「孫の家に呼ばれて来たんですが、道に迷っちゃってねぇ。孫の家に印をつけた地図がここにあるんですが――」
 地図を探そうと、カバンの中に手を突っ込む。
「ん?」
 柴崎は俊敏な動きで、老婆から遠ざかるように体を反らした。
 嫌な予感は的中した。老婆がカバンから取り出したのは地図ではなく小型のナイフ。無駄のない動きで柴崎の喉元にナイフを向ける。体を反らしていなかったら、喉を突き刺されていたところだ。
「何しやがる!」
 老婆は自らの首元に手をやり、皮膚を引き剥がした。いや、皮膚じゃない。特殊な加工が施されたシリコンのお面だ。
 精巧に作られた変装用のお面から現れたのは、そうそうお目にかかれないほどの美女だった。
 その容姿に目を奪われた一瞬のすきをつくように、背後から誰かが近づき、柴崎の腕からヤツらの目的を奪おうとした。
「そうはさせるか!」
 柴崎は忍ばせておいたサイレンサー付きピストルを取り出すと、すかさず背後の敵を撃った。そして、ナイフを手に襲ってくる美女も。
「俺から一瞬の油断を引き出したテクニックだけは褒めてやるよ」
 今までになかった攻め方に称賛を残し、柴崎は残りの道を急いだ。

「ただいま帰りました」
「お帰りなさい」
「奥様、今日も坊っちゃんは無事ですよ」
「いつもお迎えありがとう」
 ここは都内の大豪邸。世界に名を馳せる大富豪が住む家。柴崎はそこで雇われている。ご子息が通う幼稚園の送迎をするために。
 大金持ちの子供は、あらゆる組織から狙われる。誘拐すれば、多額の身代金を手に入れられるからだ。
 幼稚園の送迎時が最も狙われやすい。相手は殺しも厭(いと)わない連中だ。奥さんに送り迎えなどできるはずもない。特殊な訓練を受けた柴崎ですら、あれほど命からがらなのだから。
「危険なことはなかった?」奥さんが尋ねる。
「ええ。特になかったです」
 奥さんを不安にさせまいと、柴崎はそう答えた。
「あら、そう! ならよかった――ところで柴崎って、女性に目がないの?」
「女性に? どういうことでしょう?」
「目の前に美女が現れたら、動揺してこの子から気が逸れる……なんてことは、ないでしょうね?」
「は、はぁ。もちろんです」
 さっきのナイフの女。あれは奥さんからの差し金だったのかもしれない。柴崎の能力を試すための――
「これからも送り迎え頼むわね。ただし、この子に万が一のことがあったら、命はないと思ってちょうだいね」
 奥さんは不敵な笑みを残していった。
 もちろん、明日の朝も坊っちゃんを幼稚園に送り届けなければならない。果たしてこの命はいつまでもつだろうか。
 柴崎はヒップポケットから筒状に丸めたもの――求人情報が掲載されたフリーペーパーを取り出す。
 そろそろ転職を考える時期かな? そんなことを思いながら、柴崎はタイムカードを押した。

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