正体を隠して生きていくことに、なんの躊躇(ためら)いもなかった。たったそれだけのことで、愛を知らない私が、みんなから愛されて生きていける。本当の私なんてこの際、どうでもよかった。
「どうだい美咲ちゃん? ここでの生活はもう慣れたかい? ここの生活――というか、第二の人生って言ったほうがいいのかな?」
榎本さんは、そっと私の顔を覗き込み、包み込むような笑顔を見せた。
ここで時間を共にする人たちはみんな、私に優しく接してくれる。なかでも榎本さんは別格。心の中でお父さんと呼んでいるくらいだ。
「とても居心地がいいです」
「そりゃよかった! スターになった気分はどうだい?」
「えっ、特に……」
私は返答を濁した。
私はここに来て、スターになった。別に才能を発揮したり特技を披露したりしてるわけじゃない。矛盾しているようだが、やっていることと言えば、何もしないことくらい。ただ、のんびりと生きるだけ。そんな私のことを、みんなは好奇の目で見る。ひたすらに見られる。でも、それが愛なんだ。紛れもない、愛なんだ。
注目を集めるスターになれたことは、私にとって大したことじゃなかった。なぜなら、みんなから愛されることのほうが、はるかに意味があったから。
「じゃあ、また明日もよろしくね!」
気恥ずかしい心持ちを察してくれたのか、榎本さんはいっそう陽気に手を振りながら、控室から出ていった。
物心がつく前の私は、親からひどい虐待を受けていたらしい。親? 父は母の妊娠を知った直後、無責任にも姿を消したそうだ。だから、私に虐待を加えていたのは、母と、その恋人? 恋? 幼い子供に手を出すような男と女の間に芽生えているものが、恋だなんて呼べるだろうか? 薄汚れた肉欲って呼んだほうがきっと適切だろう。
そんな私を救い出すように、ある日、知らない大人たちが現れた。あの日のことは、なんとなくだけど、覚えている気がする。そして、知らない子供たちに囲まれ、児童養護施設で暮らすようになった。
人並みに成長した私は、施設の自立支援の一環として、この世界を勧められた。長い間、私に良くしてくれた施設のスタッフたちは、私がこの道に進むことに否定的だったようだけど……でも、正体を隠して生きていけることは、暗い過去を持つ私のような人間にとってはありがたいことだ。ましてや、愛を知らない私が、たくさんの愛を受けられる。この道を拒む理由など、どこにもなかった。
ある日の昼下がり、私の目に、ある家族の姿が飛び込んできた。
先頭を歩く男は、退屈そうにスマートフォンをイジっている。その後ろにピタッとつける女。女の足元で歓喜の声をあげる子供。よくある光景のはずなのに、なぜか私はその家族から目が離せなかった。他にも大勢の人たちがいるにも関わらずだ。
子供が名残惜しそうに女の腕を引っ張ったときだった。「うるさいわね!」と、女は金切り声をあげ、子供の頭頂部を拳で殴りつけた。
「さっきからこの子、言うこと聞かないんだよ。なんとかしてよ!」
女は金切り声のまま、前を歩くスマホ男の腕を揺すった。すると、スマホ男は面倒臭そうに振り向くと、「あぁ?」と眉間に皺を寄せ、子供を睨みつけた。
そして、ゆっくりと子供に近づくと、手加減することなく、子供の腹を蹴りつけた。
一瞬、頭の中が真っ白になった。
せっかく手に入れられたこの平穏。何も起こらない日常という宝物。愛を知らない私が、みんなから愛される日々。
――おとなしくしてりゃいいのに。
思わず言葉が漏れた。
そして、気づくと私は、走り出していた。
走り出す?
この世界で生きる唯一の掟。それは正体を晒さないこと。走り出した私は、完全にその掟を破ってしまった。
館内は悲鳴に包まれた。
走り出した私は、足元に落ちた笹の葉を蹴り上げながら、華麗に柵を飛び越え、男と女の前に立つと、全力で顔面を殴りつけた。
「子供のためなら、自分の命だって差し出せる。それは親の義務であり覚悟であり、欲であるべき。親としてイチから出直しな!」
恐怖で悲鳴に包まれていた館内は、今や静まり返り、唖然とした顔がズラリと並ぶ。目の前で起きた出来事が衝撃的過ぎて、写真に収めようとする姿すらない。
足元に目をやると、お腹を押さえた子供が私を見上げている。トラウマ級に脅かしちゃったかなと心配になったけれど、その目は私をしっかりと見つめていた。
好奇の目を私に向ける人間たち。ただ、その目は明らかにいつもと違う。その青ざめた表情を見て、事の重大さに気づいた。
私は、みんなの夢も愛も壊してしまった。
呆然と立ち尽くす私を救ってくれたのは、やっぱり榎本さん。介抱するように、館内から私を連れ出してくれた。
控室に向かう廊下で榎本さんは、私の背中に手をやり、あろうことか、背中のジッパーを下ろした。
精巧に作られたパンダの着ぐるみから、私がむき出しになる。自分でも気づいてなかったけれど、私の目には涙が溢れていた。
掟を破ってしまった私に、榎本さんはどう接してくるのだろうか。きっとこの世界から追い出されてしまう。榎本さんからも冷たく見放されてしまうに違いない。
恐る恐る視線を上げてみると、そこにはいつもの笑顔があった。
「美咲ちゃんは、スターかと思ってたけど、子供たちのヒーローだったんだね! カッコよかったよ」
それを聞いた私は、その場にひざまずいた。
「私、わたし……とんでもないことしちゃいました。ごめんなさい! 私、ここに居たいんです。あんな日々には二度と――」
誰しも一度は思ったことがあるはずだ。
――パンダって、なんて愛くるしいんだ。何も考えずゴロゴロと暮らす様子は、なんて愛おしいんだ。まるで、着ぐるみの中に人間が入ってるみたい!
そう。正解。人間が入ってるんだよ。じゃなきゃ、あんなにも人間に愛されるキャラクターを演じられるわけがない。
パンダの中に人間が入っていた――その事実は、きっと世界の常識を引っくり返すことになるだろう。子供から大人まで、老若男女問わず愛される存在のパンダ。その愛を私はブチ壊してしまった。
そんな私に、榎本さんは優しく言った。
「大丈夫だよ」
「え? でも――」
「よく考えてごらん? 正体がバレるのを、防ぎきれるわけがない」
「じゃあ、今までも?」
「もちろん!」
「どうやって今まで……?」
「来場者の記憶を消させてもらうのさ。この瞬間、我が動物園に足を踏み入れている全ての来館者の、今日という一日の記憶を、ね。」
優しい表情しか見たことがなかった榎本さんの眼光が、一瞬だけ鋭く光った気がした。