蒸し暑さが夏の訪れを感じさせるある日、彼はこの村へとやってきた。
これまでこの村を訪れた人たちと同じく、彼も探しものをするために、ここへやって来たらしい。
「あなたも記憶を?」
「えぇ。ここに来れば見つかると聞いたもので」
彼は地面へと視線を落とし、取り憑かれたように目玉を動かしている。
この村は、無くした記憶が眠る村と言われている。実際に、探し求める記憶を掘りあて、大喜びで村を後にした人も多い。彼もそのうちのひとり。無くしたものを見つけるため、ここへやってきた。
よほど重要な記憶を失ってしまったのか、既に心神喪失気味の彼が心配になり、僕は彼を家に泊めてあげることにした。
「何か見つかりましたか?」
自身の記憶を探すため、一日中村を這いずり回った彼は、すっかり疲れ切っていた。
「おかげさまで。とある記憶の断片を見つけることができました」
「それは何よりです」
「喜ばしい記憶じゃなかったのですが……」
「と言いますと?」
食後のブラックコーヒーを啜りながら、彼は話しはじめた。
「どうやら俺は、恋人が隠れて浮気してることに気づいてしまったようです」
「なるほど……それはお気の毒に」
「前々から怪しいとは思っていたのですが……意を決し、彼女のスマートフォンを覗き見てみると、そこには他の男との生々しいやり取りが――」
男は固く口を結び、しばらく黙り込んでしまった。
「――今日、見つかった記憶の断片はそこで終わっていました。その後、どうなってしまったのか。未だに記憶は失われたまま。ただ――」
「ただ?」
「記憶が蘇った今、彼女に対する憎悪で胸が苦しくて」
「お察しします」
記憶を探す作業の疲れと、手にした記憶の忌々(いまいま)しさからか、敷いてあげた布団に横たわると、数分もたたないうちに寝息をたてはじめた。
彼のことが気になり、なかなか寝付けないまま朝を迎えた。
この村にいる理由は、無くした記憶を取り戻すためだけだからと、彼は早朝から記憶探しをはじめた。僕の家の裏庭も探してみたいと彼が言うので、僕はそれを承諾した。
地面を凝視しながら歩き回る彼の様子を横目に見ながら、朝食のトーストをつまんでいると、彼が急に大声で叫び出した。
「どうしました?!」慌てて彼のもとへ。
「やめろ! やめろ! やめろっ!」
彼は激しく首を横に振りながら叫び続けている。
「落ち着いてください!」
「やめろ! やめろっ!」
完全に冷静さを失った彼を抱きかかえ、強引にリビングへと引っ張り込む。
「何があったんですか?! また、何か悪い記憶でも?」
過呼吸が治まらず、荒い息を繰り返す彼は、「えぇ」と弱々しく漏らした。そして、尚も頭を振り続ける。
彼を落ち着かせるため、水を一杯用意しようと立ち上がったとき、絞り出すように彼が言い放った。
「彼女を殺してしまった」
「え?」
「この手で彼女を殺してしまったんですよ!」
深々と祈るような格好で床に突っ伏すと、彼は声をあげながら泣き出した。
「浮気の証拠を突きつけ、彼女を問い詰めたんです。すると彼女、開き直ったように逆上しはじめ……その態度に腹が立ってしまい、気づけば彼女の首を……首を両手で締め――」
そこまで言うと、再び黙り込んでしまった。しばらくして落ち着きを取り戻しはしたが、その日、彼が口を開くことはなかった。
無くした記憶を取り戻した先に待つのは、喜ばしいことばかりではない。彼を見ていて思う。ここに眠る記憶のいくつかは、無くされたものではなく、葬り去られたものなのかもしれない。だとすると、それは望まれない探しもの。掘り起こさず、そのまま眠らせておくほうがいい。そのほうが、人は幸せでいられる。
「じゃあ、行ってきます」
村に来て数日しか経たないというのに、すっかり痩せ細ってしまった彼。目元には濃いクマが目立つ。それでも彼は記憶探しを続けるという。
昨日、あれだけショッキングな記憶が見つかったのだから、その続きともなると悲惨な展開が待つに違いない。
まだ見ぬ衝撃的な事実に彼の心が壊れてしまわないよう、今日は彼に付き添うことにした。彼も憔悴(しょうすい)しきっているのだろう。付き添いの提案に、安堵した表情を見せた。
僕は特に言葉をかけることもなく、無言で彼の作業を見守った。
しばらくして彼は、地面からふたつの断片を拾いあげた。そして、右の手に持つ断片を頭部にかざし目を閉じる。
「あっ!」
目を見開いた彼が声をあげる。再び目を閉じ、脳裏の映像に没入すると、やがて彼は体を震わせ、跪(ひざまず)いてしまった。
「大丈夫ですか?」心配して彼に寄り添う。
「ああ……あぁ……」
言葉にならない声を漏らし続ける。
「何があったんです?!」
「彼女の……死体……車に、車に乗せて……山奥、山奥へ。木柄のショベル……穴、穴を掘る、どんどんと穴を……掘る。手が、手が痛い、手のひらから血……地面にあいた歪(いびつ)な穴。彼女の死体が…………ドスン……鈍い音。脇に盛った土を……土、土を彼女の上に――」
脳内で再生される映像を必死で言葉にする彼は、低く唸りながら歯ぎしりを続ける。まるで、終わることのない鈍い痛みに耐えるように。
彼の断片的な言葉が証明したこと。それは、彼が衝動的に恋人を殺してしまったこと。そして、死体を山中に埋めたこと。
目の前の彼は立派な犯罪者だ。ただ、失った記憶を徐々に取り戻すことで、ジワジワと痛めつけられる彼の苦しみを思うと、同情せずにはいられまい。
ふと、うずくまる彼の左手に握られたもうひとつの断片が目にとまり、僕は彼に声をかけた。
「まだ左手に、記憶の断片が」
その記憶は彼をどん底に突き落とすかもしれない。いや、彼を慰めてくれるものかもしれない。ともかく、僕自身が彼の記憶の続きを求めていた。悲しき犯罪者の行く末を。
彼は震えたまま、左手に持つ断片を前頭部に近づけた。
目を閉じる彼は意外にも落ち着いていた。叫ぶことも泣き出すこともなく。
「どうしました……?」
僕の問いかけに対し、彼は脳内の記憶をリアルタイムで辿るように話しはじめた。
「彼女の死体を土に埋めた俺は車に戻り、カバンを漁っています。指が何かに触れた。それを取り出す。ロープですね。太いロープ。そして、後部座席には折りたたみ式の踏み台。
それらを手にした俺は、彼女の死体のそばへと戻り、周囲の大きな木々を見つめている。幹の太い一本の木に近づくと、根元に踏み台を設置し、頑丈な枝へとロープをかける。それから、輪っか状にしたロープに俺の首を通す。俺の首を――」
次の瞬間、彼の様子が激変した。両手で首を押さえながら、もがき苦しみはじめたのだ。
うめき声を漏らしながらも彼は続けた。
「そして、そして、踏み台を蹴り飛ばす。俺の全体重が首を襲う。そうだ、そうだ! 思い出したぞ。俺はあの日、土中に埋まる彼女のすぐ近くで、首を吊って死んだんだ!」
異常なほどに目を見開き、彼は咆哮(ほうこう)した。
「――じゃあ、じゃあ……ここにいる俺は、いったい何者なんだ?!」
叫び声を置き去りにしたまま、彼は泡を吹いて卒倒してしまった。
彼の首には、ロープで締めつけられた跡だけが、くっきりと残っていた。