クラスメイトの笑い声。教室。校舎。チャイムの音。夕焼けに染まる放課後。校門の横で私を待つ彼。二人乗りの自転車。帰り道。たわいもない会話。彼の背中の温度。
そのどれもが、私にとっては愛おしい。
何も起こらない日常。穏やかなこの日々が、私は大好きだ。物語はまだ、はじまったばかりだってことは知っている。望まない未来が待っていることも知っている。それでも私はこの時間に包まれていたい。いつまでも、どこまでも。
「高校を卒業するのって寂しいけど、大人になっていくのも楽しみだね」彼の背中に投げかける。
「ん? どした急に?」彼が背中で答える。
「こうしてずっと、ナオトと一緒にいられたらいいなぁ」
「ほんと、どうしちゃったんだよ。高校を卒業しようが大学に行こうが、ずっと一緒に決まってるじゃん」
いつだって彼は私の求める言葉をくれる。その優しさに触れるたび、私の中で彼の存在は大きくなっていく。
――ねぇ、知ってる? この平和な時間は、ずっとは続かないんだよ。
つい彼に打ち明けたくなる。私たちは悲しい宿命を背負っているの。拒んでみたところで、絶対に逃げられないんだから。
幸せなこの時間を失いたくない。私は彼の背中に顔をくっつけ、体温を頬で感じた。
それぞれ違う大学に進学したものの、二人の時間は変わらず穏やかに流れた。ひとり暮らしをはじめた私の家に、彼が遊びに来るようにもなった。高校生の頃の恋愛も楽しかったけれど、少し大人びた今の時間も大好きだ。
「バイト、疲れたでしょ?」
「うん。とにかく、腹減ったぁ!」
「りょうかーい。何か作るね」
自炊をはじめた私は、彼に手料理を振る舞うのが楽しみのひとつになった。私が作った料理を美味しそうに頬張る彼を眺めることも。
「ねぇ、幸せ?」
「なになに、急に?」
「今、幸せ?」
「うん。幸せだよ」彼は咀嚼しながら答える。「だって、こんなに美味しい料理に囲まれてるんだもん」
「料理? 私と一緒にいるからじゃないの?!」
「ウソだよ。ミサキと一緒にいられて幸せだよ」
やっぱり私の望む答えをくれる彼。
こんな展開だって予想できてたんだよ。小さな幸せが、ささやかに膨らんでいくこと。ずっとずっと前からね。
でも――そんな幸せは終わりを迎えるんだ。それも知ってる。私たちはその宿命に抗(あらが)えない。私たちには何の決定権もないんだから。
それを思うと悲しくなって、涙が溢れそうになった。でも、彼に心配をかけまいと、必死にこらえた。
何事もないような素振りで、彼の唇の端についたご飯粒を、指でつまんで取ってあげる。無邪気に笑う彼を見て、また涙が出そうになった。
理想の日々が無情にも終わりを告げる。
ある日の明け方近く、男が私の家に忍び込んだ。秋が近づき、エアコンをつけることもなくなったため、うっすら開けていたベランダの窓から、男は侵入してきた。
そして私は、体も心も汚された。
――私という物語はこうやって破滅へと向かっていくのか。
被害に遭った直後は誰にも打ち明けず、ひとりで抱え込もうとしたが、弱りきった私の心が耐えられるはずもなかった。
私は事の顛末を、家族と彼に打ち明けた。砕け散った精神を保つためには、そうするしかなかった。
あれほど優しかった彼も、私が陵辱を受けたことを知ってからというもの、その態度を一変させた。それはきっと、彼の愛情が偽りだったからじゃない。自分が大切にしていた宝物が、誰かの手によって無残にも汚された事実を、受け止めきれないからに違いない。そんな彼を、私は責めることができない。悪いのは、きっと私のほうなんだから。
そして、噂は瞬く間に大学内に広まっていった。それは大学だけに留まらず、なぜかバイト先にも知れ渡っていた。インターネットが主流のこの時代、ひとたび広まった噂は光のような速さで拡散されていく。
何より悲しかったのは、あれほど仲の良かった両親さえも、私と距離を置きたがったことだ。まるで家族じゃないみたいによそよそしい態度。私はこの世界から居場所を失い、孤独に生きることを余儀なくされた。
じっとしていると気が狂いそう。ひとり暮らしのマンションから飛び出した私は、月明かりを頼りに夜道をさまよった。そして、願いをかける星さえも見当たらない空を睨み、すがるように懇願した。
「私の運命はこの先どうなってしまうの? 私に待っているのは、ハッピーエンド? それともバッドエンド? このまま物語は、どんな風に結末へと向かうの? 私が幸せになれるストーリーは、まだ用意されてる? それとも、さらにどん底へと突き落とすつもり? すべてはあなたのイマジネーションの中にあるんでしょ? 私みたいな立場の人間が願えることじゃないのはわかってる。でも、叶えて欲しい。私の幸せな結末を」
耳障りな目覚まし時計のアラーム。まだ起きたくない。いつまでも眠っていたい。
「ミサキ! 起きなさいよ! 学校に遅れちゃうわよ!」
え? 母の声?
「もうすぐ高校も卒業なんだから、遅刻ばっかりしてないで、ちゃんと学校に行きなさいよ!」
高校? 卒業?
手元のスマホがメールの受信を告げる。
『悪い! 寝坊した! 先に学校行ってて』
それはナオトからのメールだった。
もしかして、ぜんぶ夢だったの?
私は、ある作家のとある作品に登場する主人公。私のすべては作者の意のまま。そして、物語は起承転結に従って紡(つむ)がれる。起承転を経た今、物語はまもなく結末を迎える。
「まさかの夢オチ?」
思わず笑ってしまった。あろうことか、禁断の夢オチが私を待っていたなんて。
『遅刻してもいいから、自転車の後ろ、乗っけてよ』
私は彼に返信する。いつもどおりの日常。今までと変わらない日常。もう、何も起こらなくていいよ。何も起こさなくていい。今ならきっと、退屈な時間でさえ愛せる。
「ありがとう」
私はこの結末を用意してくれた作者に心から感謝した。と同時に、夢オチなんかで物語を結んでしまう、作者の才能の無さを哀れんだ。