「おっ! ミラーさんの出番ですか!」
廊下ですれ違った若手巡査が、声も陽気におだててくる。
男は大きめの手鏡をセカンドバッグのように掴み、取調室へと入っていった。
「お前がやったんだろ?」
「知らねぇよ」
「ほんとのことを言ってみろ」
「………」
映画やドラマによくあるやり取りが続く。軽いため息を漏らした男は、脇に置いた手鏡を被疑者の顔へと近づけた。
「俺に話さなくてもいい。鏡に映った自分に語ってみろ。ほんとのことを――」
煩わしそうに耳を掻く被疑者の中年。男が質問するたび、チラチラと鏡を覗いてみる。やがて鏡の中の自分と何度も目があうと、知らず知らずのうちに、その口を開きはじめた。
「どうでした?」
取調室から出てきた男に、さきほどの若手巡査が声をかける。
「罪を認めたよ」
「さすがです!」
巡査からの称賛に、控えめな笑みを返す。手鏡の鏡面に息を吹きかけ、丁寧に磨きながら、男は事務室へと戻っていった。
鏡は自分以上に自分を語ってくれる――そんな心情を持っていた。警部である男は、心情に従うように、取り調べに鏡を使うようになった。やがて署内では〈ミラーさん〉と呼ばれるようになり、信望を得ていった。
取り調べにおける鏡の効果は覿面。かたくなに沈黙を貫く被疑者たちも、鏡に映った自分と対峙した途端、重い口を開きはじめ、嘘もつけなくなる。健気な自分を前にすると、誰だって心を開いてしまうというわけだ。
正義こそが己のすべて。警察官という職に就く男は、時折、自室の姿見に自身を映し、その生き様を見つめる。それはストイックな性格を持つ男ならではの所業だった。
その日も例に漏れず、姿見の前に立ち、瞑想のような時間に耽る。
ふと鏡の汚れが気になり、鏡面に触れたその時だった。指先が鏡の中に吸い込まれていく感覚を覚えた。
「ん?」
その感覚を確かめたくて、男は指先だけでなく、手の先を、そして腕を、鏡の中へと伸ばしていった。手の先に何かが触れるでもなく、気づけば男の全身は鏡の中に飲み込まれていた。
グラグラと揺らぐ視界。まるで強いめまいに襲われているよう。ほんの一瞬だけ意識が途切れたのち、鮮明な景色が戻って来た。我に返ると、何事もなかったように姿見の前に立つ自分がいた。
ただ、あろうことか視点が斜め上から自分を見下ろす――神視点へと変わっていた。
――おいおい、大口あけてあくびするなよ、俺! ここのところ事件が頻発し、多忙で睡眠が足りてないのはわかるが、人前でアホ面こいて恥ずかしい……。
署に向かうため駅前の大通りを歩く男は、神視点で自分自身を眺めている。まるでゲームの世界にいるように、常に客観的な視点で自分を見ている――いや、観察していると言ってもいいだろう。
――よく見ると太い鼻毛が出てるじゃないか。
署に戻り、同僚と会話する。きっと同僚も気づいているはずなのに、男の鼻毛を指摘する素振りはない。
――おいおい。怒らないから誰か指摘してやってくれよ。このままじゃ恥をかきっぱなしじゃないか。
幼い頃の夢は警察官になること。憧れとは程遠い現実もあるが、夢を叶えた男は、誇りと自信から完璧を自負して生きてきた。何ひとつ抜かりなく、非の打ち所のない人間として。
しかし、無くて七癖、あって四十八癖とはよく言ったものだ。人は無意識のうちに醜態を晒して生きている。それなのに飄々と生きていられるのは、それに気づいていないからだ。
歩き方、話し方、笑い方、相槌の打ち方、ふとしたときに見せる表情。他人への言葉づかい、感情的になったときの振る舞い、酒を飲んだときの饒舌ぶった口上。性の欲望にまかせた異性との交わり、ひとり耽る自慰行為。
なにもかもに目を覆いたくなるような癖が散見され、ただただ閉口するばかり。プライドや自惚れも、そんな醜態によって霧散していく始末。
――なんて情けない男なんだ!
男は自らの生き方を否定したくなり、頭を掻きむしった。
ある朝、出勤の準備をしていると、神視点がもたらすあまりの息苦しさに耐えられなくなり、姿見に体当たりしていた。まるで終末を悟った自殺志願者のように。
――あの世界に戻りたい! 何も知らなかったあの頃に! 完璧な人間なんかじゃなくていい! 情けない人間のままでいい! たとえこの世界が真実で、あの世界がいつわりだったとしてもいい。俺を鈍感で無知な世界へと戻してくれ!!
あの日と同じように、その体は鏡の中へと吸い込まれ、やがて一瞬の刹那、その意識を喪失した。そして、耳をつんざく音とともに、体は元いた世界へ。
フローリングの上には粉々に砕け散った鏡。四つん這いになって息を荒げる男。破片が手に突き刺さる痛み。ふと覗くと、バラバラになった鏡の中には、寸断されたいくつもの顔面が映っている。それは醜く、歪んでいる。
気づけば薄ら笑いを浮かべていた。口元からよだれを垂らしながら。
――これでいい。これがいい。これが俺だ。これが本物の俺だ。
割れた鏡の上についた手のあちこちから真っ赤な血が流れている。それを舌でペロリ舐めると、男は洗面所へと向かった。
蛇口を全開にし、限界まで水の勢いを強める。飛び散る水しぶき。それを浴びながら、無心で手をこすり合わせる。こびりついた血を洗い流すために。
ふと、顔を上げ、顔先の鏡を直視する。そこには、粉々に割れた鏡の破片に映ったさきほどの、醜く歪んだ化け物のような顔面が映し出されていた。
――これでいい。これがいい。これが俺だ。これが本物の俺だ。 突如としておとずれた安堵感。鏡に向かいふざけて笑ってみせると、鏡の中の自分も屈託なく笑った。