「硝子(しょうこ)さんって、ほんとおしとやかですよね! 同じ女として憧れるなぁ~」
先週末、郊外のショッピングモールで夫と買い物をしているとき、同じ職場で働く岩崎とバッタリ会った。わたしの名を呼ぶ聞き慣れた声に視線を向けると、そこに岩崎がいたのだ。
「女の品格ってやつですよね。女は男の三歩うしろを歩け! あれを地でいってるんだもん。尊敬しちゃうよねぇ?」
昼休みの社員食堂。岩崎は隣に座る後輩社員に同意を求める。声の大きな岩崎に気圧(けお)されるように、後輩社員はうなずいた。
「それだけ硝子さんのことをリードしてくれる、包容力ある旦那さんなんだろうな。いいなぁ~、おしどり夫婦って憧れる!」
大きな瞳をうるませながら、岩崎は箸でつまんだ唐揚げを口に放り込んだ。
岩崎の言うとおり、わたしは夫のうしろを歩く。それはいかなるときも。そしてそれは、歩くときだけじゃない。家にいるときもだ。
食卓で向かい合って食事することもないし、夫の出勤は家を出たあとの背中を見送る。信じてはもらえないだろうが、出会ってからというもの、夫の顔を見たことはただの一度しかない。私から夫に付き合って欲しいと告白したあの日が最初で最後だ。
結婚して五年になるが、いまだに夫は諦めていない。世界中すべての愛し合う者たちと同じように、互いの顔を見て、目と目をあわせ、愛を確かめあうことを。
でも、彼がそれを望み、振り向こうとした瞬間、わたしは顔をそむける。まるで忌み嫌うかのように。その度に夫はひどく落胆した。彼を傷つけていることもわかっている。でも、これは仕方がないこと。わたしにとって譲れないこと。
メンタル的な問題を疑われたこともある。でも、わたし自身、そうではないことを知っている。
ただ唯一、寝室で愛しあうときだけは、正面から向き合うことができる。部屋の明かりを消し去れば、何も見えなくなるからだ。月明かりさえも許さない暗闇。その中でわたしたちは求め合う。その時間だけは、すべてに蓋をし、想像の世界に身をゆだねられるから。
その日の夫は、どこか様子が違った。
仕事からの帰り道。うしろから夫に呼び止められた。帰路に着く時間が同じだったのだろう。
わたしは彼の顔を見ることなく、即座に背後にまわる。いつもならそのままふたり、家に向かって歩きはじめる。ところが夫は執拗に振り返り、わたしと話をしたがった。
「なぁ? 今日の仕事、どうだった?」
どうでもいい会話のはずなのに、わざとらしく振り向いてくる夫。
「なぁ? 硝子? 聞いてる?」
その度にわたしは顔をそむけ、足元に視線を落とす。
そしてその時はおとずれた。
「硝子! なんで俺のほうを見てくれないんだ! もう我慢の限界なんだ! いい加減、こっちを見てくれよ!」
まわりの通行人が驚くほどに感情を昂らせ夫が叫ぶ。そして、うつむくわたしににじり寄ると、強引に両肩を掴もうとした。
「やめて!」
悲鳴にも似た声をあげその手を振り払う。
好きでもない夫の両腕は、ひどく汚らわしいものに思えた。
彼の腕から逃げ出したわたしは、気づくと車道の真ん中に飛び出していた。
打ち鳴らされるクラクション。視線の先には迫りくる車。そして耳に飛び込んできたのは夫の声。
「危ない!」
不覚にもその声に目をやってしまった。そこにはわたしを助けようと駆け寄ってくる夫――ひとりの男――の姿があった。
見たくない! 見たくない! 見たくない!
「こないで!」
そう叫んだ瞬間、衝撃とともに視界がぐるりとひっくり返った。わたしの名を呼ぶ声だけが脳内でリフレインする。そのまま意識はどこかへ飲み込まれるように消失した。
わたしがその男に告白した理由。それは、うしろ姿に惹かれたからだった。正確にいうと、わたしが最初に結婚した夫のうしろ姿にそっくりだったのだ。
病に倒れ、若くして命を落とした元夫。わたしは心の底から彼のことを愛していた。未亡人となった半生、他の男を求めることなどないと思っていた。未来永劫、求めることすら許されぬまま、彼の存在を引きずって生きる。悲哀に満ちた宿命を受け入れたつもりだった。
そんな時に現れたのが、いまの男だった。
街で男のうしろ姿を見た瞬間、全身が硬直した。しばし呆然と立ち尽くし、呼吸の方法すら忘れてしまったほどだ。
体は無意識にその男に吸い寄せられ、気づけば男の背中に向かって、付き合ってほしいと乞うていた。
振り向いた男の顔。それを一瞥したわたしは――その後の人生、男の顔は二度と見るまい。男のうしろ姿だけを見て生きるんだ――そう心に誓った。
だって、わたしが欲しかったのは、その男ではなく、愛する夫のうしろ姿だったから。
「今日はいい天気だね」
「そうね」
あの日の事故で、わたしは下半身の自由を失った。これから先、歩くことは叶わないと医師から告げられた。
それでもわたしはしあわせだった。
今もこうして、夫の背中を見ていられる。
わたしからの無情な拒絶を受けた男は、それでもわたしと一緒に居たがった。わたしはそれを喜んだ。こんなわたしのことを見捨てないでいてくれたことへの感謝? それとも夫のうしろ姿を失わずに済んだ安堵感?
医師は車椅子を勧めてきた。わたしはそれを拒んだ。
「どこか行きたいところはある?」
「心地よい風が吹く場所に行きたいわ」
「了解!」
目の前には愛する夫のうしろ姿。
車椅子じゃ愛おしいそのうしろ姿が見られないじゃない。
だからこれを選んだの。
周りからは好奇の目を向けられるけど、そんなこと気にしない。
視線の先には、汗を流しながら体を躍動させ、人力車を引く夫のうしろ姿があった。