最後の客

「実はお客さんが、この店で最後のお客さんでして――」
 物思いに耽りながらウイスキーのグラスを指でなぞっていると、唐突にマスターが声をかけてきた。
「最後?」
「えぇ」
「この店で最後ってことは、店を畳むってことかい?」
「まぁ、畳むというわけでもないのですが――」
 そう言うと、マスターは深みのある声で語りはじめた。

 たいそう古びたこのバーには、あるしきたりがあるらしい。そして、そのしきたりによって、永い年月に渡り、潰れることなく店が続いてきたとのこと。これまで何人もの人たちが、この店のオーナー兼バーテンダーとして、店を切り盛りしてきた。代替わりの方法が特徴的で、オーナーが店をやめようと決めた日の最後の客に、新たなオーナーの白羽の矢が立つそうだ。
「それで俺に?」
「そうです。お察しがいい」
 男をおだてるようにして、マスターは何度も頷いてみせた。
「オーナーが変われば、店の雰囲気も変わる。そうなれば自ずと客層も変わり、店がまた活気づくってもんです」
「なるほど。固定客だけじゃ売上も平行線だろうしな。新規客が来れば店も賑わう。なかなかユニークな方法だな」
「過去には、美女がバーテンダーを務める時代もありましてねぇ。それはそれは美人オーナー目当ての男たちが多く訪れ、店が繁盛したそうです」
「それじゃまるで、バーというよりスナックだな」男は笑う。
「店内で喧嘩が絶えなかった頃もあったとか。悲運にも最後の客が荒くれ者の常連客だったようで、当時のオーナーは泣く泣く店を譲ったそうです」
「オーナーによって店の表情がコロコロと変わるってことか。確かに店の雰囲気は、マスターから香っているといっても過言じゃない。そして今は、マスターの温和な人柄がにじみ出る、落ち着いた風情のバーってことか」
「このとおり、これといった特徴も個性もない、オーソドックスなバーになっちゃいましたがね」
 視線の先には謙遜するマスター。男はカウンターに立つ自分の姿を想像してみた。いったいどんな店になろだろうか。どんな客が集うだろうか。華やいだイメージが脳内に広がる。ただ、現実に目を向けた瞬間、妄想は一瞬にして萎んでしまい、男は泡沫の理想を吹き消すように小さく鼻を鳴らした。

「というわけで、お客さんが最後の客。ぜひ、次のオーナーになってもらいたく――」
「おいおい、冗談はよしてくれよ」
 マスターの言葉を遮るようにして、男は苦笑いを浮かべた。
「今、地球がどんな状況か知ってるだろ?」
「もちろん」
「じゃあ、その提案がいかにバカげているか、察しがつくってもんだろう」
 ごもっともと言わんばかりの表情で、ポリポリと頭を掻くマスター。
「俺はこの店の最後の客かもしれないが、それ以前に俺は――」
「地球に住む最後の人間――そう言いたいわけですね」マスターが男の言葉を引き取った。
「現時点では、俺とマスターの二人きり――というわけなんだが。どうせマスターも火星に移っちまうんだろ? それがこの店を去る理由だってことくらい、バカでもわかるさ」
「実に申し上げにくいですが、そのとおりでございます」
「みんなみんな、地球を捨ててヨソの惑星に行っちまう。自分たちの手で地球を使い古しにしたくせに、住心地が悪くなればサヨウナラ。ほんと勝手な生き物だよ」
「耳の痛い話です……」
「俺は地球でひとりぼっちになっちまう。わかるだろ? 客がひとりもいないのに、バーなんてやれるわけがない」
 語気を荒らげた男を見て、マスターは身を乗り出した。
「逆に個性があっていいのでは?」
「マスター? あんた、正気かい?」
「バーというものは、それぞれが孤独を持ち寄る場所。それを見守るバーテンダーは、孤独の象徴でもあるのです。店に集うお客さんたちの表情や仕草から、感情を読み取ってみたり、心の中でエールを送ってみたり。孤独をテーマに画家が絵を描くなら、きっとバーのマスターを描きますよ」
「なるほどなぁ」
「どうです?」
 客がひとりもいない惑星の片隅で、バーをやるのも悪くないかも。もしもこの店のオーナーになったら――さっき吹き消した妄想の続きを再生してみた。
 もともと孤独な人生だったじゃないか。この地球に何十億もの人間が生きていようが、温もりを交わすことがなければ、ひとりぼっちと変わらない。この地球に居残ることを決めたのも、孤独と心中する覚悟ができたからじゃないか。
「よし。決めた。今日から俺がこの店のオーナーだ」男はシェイカーを振る仕草をしてみせた。
「火星に移り住んだ人たちが、時折この地球にやってきて、フラッと立ち寄るバー。孤独という温もりを求めて客たちが集う。そんな故郷のような存在になれるかもしれませんね」
 そう言うと、マスターは店の鍵を男に手渡した。
「そんなうまいこといくかねぇ? 火星ってのは、ユートピアのような場所なんだろう? 地球になんて未練があるはずもない」
「実態は理想郷とはほど遠いらしいですよ。人間というのは欲にまみれた生き物。どこで生きようが同じ過ちを繰り返しますから」
「過ち? 火星は今、どうなっているんだい?」
「未開の領土を我が物にしようと、あちこちで戦争が起こっていますよ――」
 店をあとにするマスターの背中を見送ったあと、男はバーカウンターの中に入ってみた。
「ねぇ、そこのお客さん。人間ってのは、いったい何を求めて生きてるんですかねぇ」
 客のいない店内に向けて話しかけてみた。もちろん返事はない。どこまでも続く沈黙を埋めるように、飲みかけのウイスキーグラスを指でなぞった。

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