実は、母さんは

「ただいま」
 父さんが帰ってきた。寝転んで漫画を読んでいた僕は、声に視線を移す。仕事でイヤなことでもあったのか、どこか疲れた様子の父さん。人懐っこい笑顔をチラッと見せると、いつものように二階へとあがっていった。
 父さんがあがってしばらくすると、二階から母さんがおりてきた。
「すぐにご飯の用意するね」
 サッとエプロンを身につけると、母さんはキッチンに立った。その背中を少しだけ眺め、読んでいた漫画に視線を戻した。

「今日のテスト、どうだった?」
 母さんと二人の食卓。僕の顔を覗き込むように、母さんが尋ねた。来年には僕も中学生になる。そんな僕の成績が気になるのだろう。
「まぁまぁかな。算数が難しかったよ。どうしてもわからないところがあってさぁ」
「わからないところ?」
 母さんはピタッと箸を止めた。
「父さんに教えてもらいなさいよ。わからないところはすぐに解決したほうがいい。父さん、呼んでこようか?」
 母さんが二階を指差す。
 僕は慌てて、「あっ、いいよいいよ! わざわざ父さんに教えてもらわなくっても。父さんだって疲れてるでしょ」
「遠慮しないでいいのよ。呼べばすぐにおりてきてくれるから」
 すぐにおりてくるなんて無理だ。
 椅子から立ち上がろうとする母さんの袖を掴んで、僕はそれを制止した。
「いいって。わざわざ呼ばなくても……」
「そうかい?」
 椅子に座り直した母さんの表情は、どこか寂しそうだった。

 日曜日に父さんと部屋に二人。特に会話するでもなく、プロ野球中継が流れるテレビをぼんやり見つめる。
 父さんの仕事は火曜と水曜が休みだから、週末に父さんと過ごすことは滅多にない。今日は珍しく会社の都合で休みになったそうで、朝から父さんは家でゴロゴロしていた。
 スコアボードに並ぶ両軍のゼロの得点。とても退屈な試合だ。漫画を取りに行こうとしたそのとき、父さんが声をかけてきた。
「クラスに好きな子はいるのかい?」
 あまりにも唐突な父からの恋愛話に、どう返答していいのか困った。
「好きな人のことは大切にしろよ」
 父はポツリと言った。均衡を破るホームランが誘うファンたちの歓声が、その余韻をかき消した。
 少しの沈黙のあと、「今、欲しいものはあるかい?」と、父は再びポツリ。
「欲しいもの?」
「あぁ」
 これまた急な質問が飛び出した。ただ、父の問いに考えるまでもなく、僕の頭の中には欲しいものがすぐに思い浮かんだ。でも、口にはしない。父さんには絶対に言ってはいけないと自覚してるから。
「新しい漫画かな」
 僕はそう言い残し、父さんと二人の部屋から出て、漫画を取りに行った。

 近所のスーパーへ母さんと買い物に出る。
 もう六年生だというのに、母さんはいつも僕と手をつなぎたがる。クラスメイトに見られたらどうしようと、いつも伏し目がちに歩いてしまう。
 靴紐のほつれが気になったその時だった。
「わぁっ!」
 母さんが急に叫んだ。
 慌てて足元から母さんへと視線を移す。
 目の前を猛スピードで走り去る自転車の男。その手には、母さんの買い物バッグが握られていた。
「ひったくり! 待てやコラァ!」
 母さんは舌を巻きながら叫ぶと、つないだ手を離し、全力で走り出した。僕はこわくなって、その場に呆然と立ち尽くした。
 前方では自転車の男が人ゴミに進路を邪魔され、体勢を崩していた。
 母さんが男に追いつく。ひったくりの男、大丈夫かな? 僕の母さんはめちゃくちゃ強いから。きっと男をボコボコにしてしまうだろう。だって、僕の母さんは――。

「ケガはなかった?」
 さっきまでの凶暴さが影を潜め、いつもと変わらぬ優しい母さんが、しゃがんで僕の顔を覗く。僕はまだ恐怖を引きずり、声も出せないでいた。
 そんな僕を見た母さんは、人懐っこい笑顔をチラッと見せたかと思うと、僕のことを強く抱きしめた。
「大丈夫だよ。母さんがついてるからね」
 母のふくよかな胸が僕の顔を埋め尽くす。ふくよかな胸? 胸? 僕はこれが偽物の胸だってことを知りながら、張りぼてのその胸に顔をうずめた。
 いつも、ありがとう。僕のために頑張ってくれてありがとう――父さん。でっかい胸パッドを入れてまで、母さんでいてくれて、本当にありがとう。

 物心がついてすぐ、僕の母さんは家から出て行った。だから、母さんの顔は、ぼんやりとしか覚えていない。
「母さんねぇ、遠くで用事ができちゃったから、行かなきゃならないの。用事が終わったら帰ってくるから、お利口さんにしててね」
 母さんが残した最後の言葉だった。
 用事が終わり帰ってくるのを心待ちにしていたけれど、母さんはいつまで経っても帰ってこなかった。うすうす僕も気づきはじめた。母さんは出て行ってしまって、もう二度と帰ってこないってことに。
 いつからか父さんは、僕のために一人二役をこなすようになった。朝は父さんとして仕事に出て行く。夜は父さんとして仕事から帰り、二階にあがったかと思うと、しばらくしてから母さんとしておりてくる。
 長い髪のカツラを被り、顔にはしっかりとメイク、胸パッドまで入れて母さんになる。母さんのいない、僕のために。
 どんなに疲れているときでも、母さんになること、母さんでいることに手を抜かなかった。不器用な父の、ひたむきな気づかい。僕はそんな父を心から尊敬していた。
 ありがとう、父さん。いや、母さん。
 母の胸は本当に安心できて、気づけば涙が溢れていた。

 あれから僕は、母のいない人生に特に不自由することもなく、幸せに生きることができた。すべて父さんのおかげだ。
 そして今、愛する彼女を紹介できる日がきた。結婚の報告をするために。
「緊張するなぁ」ソワソワと落ち着かない彼女。「ユウヤ君のご両親に気に入ってもらえるかな?」
「絶対に大丈夫だよ」
「仲良くできるかな?」
「大丈夫! ウチは母さんも父さんも優しいからね」
 僕は二人の顔を思い浮かべる。
「ホントに優しい? ユウヤ君に似て?」
「そうだね。僕に似て」
 それを聞いて彼女は少し安心した様子だ。
 インターフォンを鳴らす。
 ドアフォンからは、「はーい!」と不自然なくらいに甲高い、裏声が聞こえた。
 僕はそれを聞いてニヤけてしまう。
 そして僕は彼女に言う。
「どうやら今日は父さんが家にいないみたいだから、母さんに挨拶だね! 父さんは、また今度で!」

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