夕立

 ふらふらと、おぼつかない足取りに任せ、軒下に潜り込む。シャッターが閉じられた飲食店の店先。こじんまりしたイタリアンの店だ。前触れなく降り出した夕立から逃げるように、僕は身を潜めた。
 乱暴に鳴らす打楽器のような雨音。走り去る車が飛ばす水しぶきの音すら、その轟音に飲み込まれる。目の前は真っ白だ。まるで煙に包まれたみたいに。
 少し先すらも見通せない煙った景色の中を、僕は凝視した。この大雨の中に、きっとあの子がいるはずだと信じながら。

 小学生最後の夏休み。あの日も、こんな風に、なんの前触れもなく夕立が降った。
 うだるような暑さが続いた夏だった。家でゴロゴロしていた僕の耳に飛び込んできたのは、突如として家を打ち鳴らす強烈な雨。外はまだ明るい。だってまだ夕方だから。
 僕の心は躍り、急いで外に飛び出した。もちろん、傘なんて持って出ない。水遊びに興じる感じ。都会に雪が降って外に飛び出すような感じ。無邪気に喜ぶ僕の体は数秒でビショ濡れになった。
 周りを見渡すと、同じように外に出てはしゃぐ男子がちらほら。僕は空に向かってあんぐりと開けた口の中に、雨水を溜めたりしながら遊んだ。
 激しい雨はまるで透明な太い線のようだ。無数の線はすべてが連なり、白い壁みたい。そんな壁を突き破るようにして、ひとりの少女が姿を現した。
 少女はこちらに向かって一心不乱に走ってくる。そして僕の横をかすめ、瞬く間に走り去ってしまった。
 その姿を追ってはみたが、乱暴な夕立に吸い込まれるように消えてしまった。

「夕立の中には、あの世に続く扉があるらしいわよ」
 ズブ濡れになって遊んでいた僕を、ひとしきり叱った母がそう言った。
「まぁ、よくある都市伝説だけどね。信じるか信じないかは、アンタ次第よ」
 からかうような目で僕を見ながら、母は夕食の準備を続けた。
 どうせ母のつまらない冗談だろうと、気にもとめていなかった都市伝説。それを思い出したのは、夏休み明けの初登校日。学校はやけにざわついていた。
「ひとつ下の学年の女子、死んじゃったらしいよ」
「え? ホントに? 誰が? 自殺?」
 クラスメイトの会話が耳に飛び込んできた。
「その子、ひどいイジメを受けてたみたい」
 最初は細切れの情報が飛び交っていたが、やがてその輪郭がハッキリすると、僕に向けられる視線が増していった。僕は、目も耳も口も閉ざし、ふさぎ込んでいった。

 あの日から僕は、夕立が降るたび、真っ白な景色の中に彼女の姿を探すようになった。
 あの目が僕の脳裏に焼きついて離れない。
 白煙のような雨の中、ハッキリと浮かびあがる彼女の瞳。必死に走りながらも、その目はずっと僕を捉えていた。
 そして、彼女は僕に助けを求めていた。幼いあの頃の僕でも、確かに感じた彼女が発するシグナル。でも、僕は彼女のそれを拒んだ。面倒なことに巻き込まれるのはイヤだったし、他人事(ひとごと)であって欲しかったからだ。
 あれから自責の念に駆られない日はない。
 僕に何ができたのだろうか。無責任に逃げ出したこの僕に……。
 雨宿りで駆け込んだ軒下に立ち、今日もこうして夕立を眺める。
 猛スピードで走り抜ける車がはねた水しぶきが、僕の下半身を濡らした。雨水でまだらになったジーンズ。不格好な自分に気づくと、急に笑いがこみ上げてきた。
「もう、どうでもいいや」
 濡れないようにと潜り込んだ軒下を飛び出すと、全身に乱暴な雨を浴びた。
 周りから見れば、僕は狂人に見えるだろう。あの日のように、空に向かって大口を開け、口の中に雨水を溜めてみた。大の大人がやることじゃない。でも、なんだか懐かしかった。
 せっかくオープンできたのに。夢だったイタリアンの店。決して大きくない。きっと大儲けなんてできない。でも、夢を叶えることができた自分を、精一杯褒めてあげた。
 それなのに……悪魔のような感染症が世界を覆い尽くすなんて。誰が想像できただろうか。当たり前の日常が破壊されてしまうなんて、誰が考えただろうか。
 店をオープンした直後に襲った未曾有の事態。店は営業の自粛を迫られた。ランチだけは細々(ほそぼそ)と続けていたけれど、わずかな売上だけでは、とてもじゃないけど食ってはいけない。
 身を削る思いで、一年近くを耐え忍んだ。でも、感染症の猛威が収まる気配はなく、国からの自粛要請はダラダラと続いた。頼みの綱だった国からの補助金も、なんだかんだと理由をつけられ、手元には入ってこなかった。
 そして僕は、夢だった自分の店を閉じる決断をした。残ったのは多額の借金。それだけじゃない。自暴自棄になった僕を見捨てるように、妻と子供は家を出ていった。
 僕は口の中の雨水を吐き出すと、どこに向かうでもなく走り出した。
 大粒の雨が僕の体をバチバチと打つ。
 あの日の彼女も、きっとこんな風に、出口のない憂鬱を突き破るために、無心になって走っていたのかもしれない。
「扉はどこだ? 扉、扉、扉」
 気づくと僕は、念仏のように唱えていた。
 容赦ない夕立。ピストルのような雨粒を受け、目も開けていられない。どこを走っているのかさえわからない。ただ、僕は、扉を探して、どこまでも走った。
 息が切れ、立ち止まる。そして、薄っすらと目を開ける。四方八方は完全に真っ白だ。その目に飛び込んできたのは、ポツンと佇む扉。奇跡を前にした僕の耳には、もはや雨音すら入ってこなかった。
 扉の前に立ち、呼吸を整える。
 楽になれる気がした。救われる気がした。
 すべての終わりを願いながら、ドアノブに手をかけたその時だった。
「行かないほうがいいよ」
 背後で女の子の声がした。
 まさかと思い、振り返ると、そこにはあの日の少女――僕の妹が立っていた。
 彼女は笑っていた。
「助けてあげられなくて、ごめん」
 根雪のように凝固した後悔と自責の念。ずっとずっと伝えたかったひと言を、ようやく解き放つことができた。
 僕はすべてから許された気がして、わんわんと子供のように泣いた。
 すると、さっきまで怒り狂っていた夕立が、まるで嘘のように止み、何事もなかったように晴れ間が顔をのぞかせた。

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