車体を軋ませながら、最終電車がホームへとやってきた。乗り込んだ車両に人の気配はなく、重い体をロングシートにあずける。空気圧の音を響かせ締まるドア。僕を乗せた電車はゴトリとその車体を動かしはじめた。
背にした車窓から吹き込む、遠慮がちな晩夏の風。それを首元に感じると、僕はゆっくり目を閉じた。
――今年もまた夏が終わる。
心地よい揺れを感じながら、まぶたの裏側に思いを巡らせる。しばらくして、電車は名も知れぬ駅で停車する。開くドアに目をやると、若い女性が姿を見せた。がらんとした車内に目をやると、彼女は僕のそばへとやってきた。
「隣、いいかしら?」
「どうぞ」
シートに腰をおろした彼女。黙ったまま車窓に広がる夜の闇を見つめている。
「わたしは……愛する人の手で殺されたの」
彼女は唐突に話しかけてきた。その目には、どんな手を尽くしても拭えないだろう孤独が滲んでいた。
「それは悲しい過去をお持ちで――」
「わたし、哀れでしょう?」
「哀れ? どうでしょうか。この電車に乗り込んでくる人間に、幸色の過去などありませんからね」
僕がそう言うと、彼女の表情が少しだけ和らいだ気がした。
停車する駅ごとに、ポツリポツリと乗客が乗り込んできた。その度に僕は、ドアへと視線を移す。何かを探すように。何かを求めるように。それでも伸びた触手は、決まって空を切ってゆく。
乗客たちはそれぞれに深い悲しみを背負い、運命に対する底なしの恨みを抱えていた。
相変わらず車内は空いているのに、乗客たちはみんな、明かりに群がる虫たちのように僕の周りに集ってくる。そして、自身が持つ悲哀のエピソードを語っていった。
不慮の事故で命を落とし、愛する家族を残してきた者。禁じられた恋愛の末、愛憎という凶器に殺められた者。
ライバル企業を蹴落とし大金を手にしたことで、命を狙われ、社会から抹殺された者。空き巣が我が家を物色している最中にたまたま帰宅してしまい、鉢合わせた犯人に殺された者。原因不明の病を患い、夢半ばにして命が尽きた者。
それぞれが纏う無情の過去。誰かに吐露することで、鬱蒼と茂る生への恨みは、どこか軽くもなるのだろう。どこか救われたような報われたような、安堵の色をその表情に滲ませた。
「あなたはどんな過去を?」
向かいに座る中年男性が僕に声をかけた。
「ストーカーっぽい男に尾けられてる気がするんだよね」
「気のせいじゃないの?」
「そうかな……」
「同じ帰り道の人とか?」
「そんな風には思えないんだけど」
「きっと疲れてるんだよ」
「そうかもね……」
ちょうど、彼女との恋愛に慣れた頃だった。社会人としての責任が重くのしかかり、自分のことで精一杯になっていた時期でもある。言い訳でしかないが、あの頃の僕は自分のことしか考えていなかった。
彼女の不安は最悪の結末を迎えた。
ある晩、彼女はストーカーに襲われた。目撃者の証言によると、彼女は悲鳴をあげながら必死に抵抗し続けたそうだ。捕まることを恐れ、焦ったストーカーは、彼女の命を奪い逃げ去った。
僕が守れなかった命。僕が守らなかった命。彼女を失った僕は、同時に生きる意味をも失い、逃避するように自ら命を絶った。
「皆さんと似たような感じです」
僕は中年男性の質問をはぐらかした。
「まぁ、人それぞれ、言いたくないこともあるでしょう」
男性は穏やかに笑った。
「それにしても、化けて出られるのが夏だけというのも侘しいものですなぁ」
中年男性の隣に座るスーツ姿の男が口を開いた。
「肝試しや怪談話は、夏の風物詩ですからねぇ」中年男性が返す。
『まもなく、夏の終わり。終点、夏の終わり』
車内アナウンスが、終着駅への到着を告げる。
この電車の乗客は、夏の間、生前の未練を少しでも晴らそうと、人間界に化けて出てきた者たち。期間は限定されているが、霊界から人間界へと戻れる唯一の方法だ。
夏の蒸し暑い夜。人間たちは怖いものに触れたがる。そんな季節に僕たち霊は、人間たちを恐怖に陥れる。怪奇現象や心霊現象などと騒がれるエンターテインメントだ。その役目を買って出ることで、人間界に足を運べる。言ってみれば、短期アルバイトのようなもの。
そしてこの列車が、霊界へと帰る僕らを運んでくれる。夏の終わりの夜にだけ走る列車だ。
僕たちはもはや命を持たない。未練や恨みを捨てきれないだけの虚しい存在。人間界に化けて出たとしても、何の解決にもなりはしないことを知っている。それでも僕らは何かを残したいのだろう。
終着駅のホームに停車すると、乗客たちはぞろぞろと降りはじめた。ひと夏の役目を終えた僕たちは、また次の夏を待つ。
ただ、僕には別の目的がある。そう。彼女と過ごしたかけがえのない時間に僕が未練を持つのと同じく、ストーカーに命を奪われた彼女もまた、未練を残したまま彷徨っているに違いない。
きっといつか、この電車で彼女と出会えるはずだ。そう信じている。だから僕は彼女を探し続ける。今度は後悔しないように。
誰もいなくなった車内を一瞥し、ホームへと降り立つ。下車した乗客たちの姿を目で追うも、彼女の姿は見当たらなかった。
そこにあるのは、命を失ったまま行くあてをなくした、夏のぬけがらだけ。
と、その時だった。
「久しぶり」
背後で声がした。それは、懐かしくも聞き慣れた声。感情が一気に爆発する。
振り返ると、涙で歪んだ視界の中に、彼女の姿があった。
「来年は一緒に、化けて出ようね」
「うん」
僕の返事を聞いた彼女は、その瞳をわずかに潤ませ、次の瞬間には改札から飛び出し、どこかへ消えていった。