「ハンカチがビチョビチョやないか……」
記録的猛暑が続く夏の炎天下。定夫は雲のかけらもない空を一瞥し、愚痴をこぼした。
いくら営業成績が悪いからって、なんで俺だけ歩きで外回りやねん。入社したての若造ですら、社用車をあてがってもらってるっちゅうのに――定夫が万年抱える不満だ。
年功序列制度がくたびれて久しい。とどのつまり、定夫が窓際に追いやられてから、もうずいぶんと経つ。それに加えてこの不景気。すずめの涙ほどの小遣い。財布の中身はいつだって財政難だ。
「あ~、金があったら、クーラーがきいた涼しい喫茶店でも入るのになぁ」
ひとりごちたその時だった、頭に締めつけられるような痛み。朦朧としはじめる意識。はげしい脱力感と吐き気におそわれ、ぐったりと倒れ込んでしまった。
ううぅ。
声も出せず、這うこともできず、その場に突っ伏した定夫。頬に触れたアスファルトの熱さえも曖昧だ。靄がかる視界の中、助けを待つことしかできない。
そんな定夫の視線の先に、なにかが飛び込んできた。目をこらすと、ハイヒールサンダルを履いた女の素足。男の性が少しだけ意識を鮮明にさせた。顔をひねり、なんとか視線を上向ける。
そこには、芸能人のような、女優のような、妖精のような女が立っていた。
「だいじょうぶですかッ?!」
女はしゃがみ込み、定夫の顔を覗く。
「ううぅ」
美女の前で弱々しい姿は見せたくない。気丈に振る舞いたいところだが、悲しいかな、呻くことしかできない。すると女が言った。
「たいへん……水分を摂らないと!」
女は小脇に抱えたバッグを漁り、中から水筒を取り出した。そして、飲み口を自身の口へ運ぶと、大きく頬を膨らませた。
もしかして!?
定夫の期待どおり、女はさらに体を折り曲げ、水分を含んだ口を定夫の口元へ。
嗚呼、生きかえるぅ――女の口から注がれる聖なる水分はいま、定夫の口腔を通過し、体内へと。至福の時間が訪れる。体のすみずみまで行き渡るひんやりした感覚に酔いしれながら、憎き会社の連中を想う――ははは、俺は勝ち組やぁ――定夫の目元には、うっすら笑みがこぼれていた。
女がさす日傘のもと、ようやく体の自由がきくようになった定夫。傍らで女は救急車を呼ぼうとしている。それを見た定夫は思考する。これほどの美女と時を過ごす機会は、あとにも先にもこれが最後だろう。定夫はそれを制止した。すると困った様子の女が提案してきた。
「ご自宅はお近くですか? 近ければ送って差し上げますが、遠いようでしたら……わたしの家がすぐ近くなので、もしよければ――」
定夫の家は、近所だった。ひとりで歩いて帰ることもできるだろう。しかし、家にはカミさんがいる。夫のわずかな稼ぎを牛耳り、肥えに肥えたガサツな女房。
定夫はすぐそばの天使に目を向ける。
――天国と地獄や。
睨みをきかせる妻の顔を葬り去るように、定夫は言ってのけた。
「残念ながら、家が遠いんですよ……」
まるで捨て猫のような目をしていただろう定夫。それを見た女は、憐れむようにその手を差し伸べた。
「わかりました! では、わたしの家で少し休んでください」
そう言うと、女は定夫を介抱するように、華奢なその体を添わせた。
――なんてかぐわしい香りなんや!
女が暮らすワンルームマンション。陽あたり良好の角部屋。清潔感あふれるフワフワのベッドの中、定夫は何度も息を吸い込み、鼻腔の中にしあわせを溜め込んだ。
「ひとりでお休みになられますか? それとも、付き添っておいたほうが安心ですか?」
美しい彼女の前でこれ以上、情けない姿は見せられない。甘えるのもほどほどにしなければ、男をさげてしまう。
そう思ってはみたものの、定夫の口から出た言葉は、「できれば付き添っていてもらいたいなぁ……体調が急変するのもこわいし」
「わかりました」
いやな顔ひとつせず、女はうなずき、可憐な手で定夫の体を軽くさすった。
「ぐっすり眠っていらっしゃいましたね。安心しました」
眠りから醒め、目を開けると、女のやわらかな声が包みこんでくれた。
「おかげさまで」
きれいに整頓された女の部屋。無駄なものは置かないタイプなのだろう、シンプルで好感のもてる空間だ。窓に目をやると、外は少し薄暗くなっていた。
「せっかくなので、フルーツでも食べていってください。水分と塩分の補給が大切ですから! ちょっと待っててくださいね」
至れり尽くせりとはこのことだ。定夫は日頃の行いを思い返してみた。が、特に善行を心がける人間でもない。まぁ、よしとしよう。我慢我慢の人生。これくらいのハッピーを貪ったとしてもバチは当たるまい。
どうやら女はスマートフォンでフードデリバリーを注文しているようだ。
画面をなぞる細く白い指。それを凝視する定夫の中に、よからぬ欲望が顔をもたげはじめた。
――この女とイケナイ関係になれるんじゃないか?
体調が悪化してきたと嘘をつく。再び女が介抱してくれる。回復の兆しが見えないことを告げる。そして帰れそうにないと詫びる。そこで女からの提案――今夜は泊まっていきませんか? 遠慮しながらもそれを受け入れる。ふたりで同じベッドの中、体を触れ合わせて眠る。女の髪からは風呂上がりのフローラルな香り。やがてぬくもりを求めはじめる女。慰めるようにして女の体を包み込む。欲望のままに求め合うふたり。徐々に激しくなる息づかい。夜が更けるまで。夜が明けるまで。何度も重なり合う。まさにサマータイムドリーム!
妄想がどんどん暴走していく。
それをいさめるように、インターフォンが鳴った。
「あっ、きた!」
嬉々とした様子の女が玄関先へと向かう。
「ありがとうございます!」と女の声。
「ご注文のフルーツ盛りです。えらい豪華なん食べはるんやね」と、配達員の声。どうやら年配の女の配達員らしい。年配? 女?
定夫はリビングのドアの隙間から、廊下の先を凝視する。
「暑い中、ご苦労さまです!」
労う女に配達員は言った。
「亭主の稼ぎが悪いから、こうしてアルバイトしてるのよ。でも、暑い中がんばって働いてくれてるのに、妻だけ家でゴロゴロしてたら申し訳ないでしょ。ちょっとでも家計の足しになればと思ってねぇ」
配達員からフルーツ盛りを受け取った女が、弾むようにリビングに戻ってくる。
「いっぱい食べて、元気を出してくださいね!」
女は美しかった。そして無垢だった。望んだとしても手に入るはずもない幸福がそこにはあった。
「もし、体調が戻らなかったら、泊まってもらっても大丈夫なので」
望んだ展開と望まぬ展開。まさに運命のイタズラ。悲しき決断の時に、定夫は歯を食いしばる。
「あ、あぁ。どうやら体調が回復してきたみたい。せっかくの厚意を無駄にしてしまって申し訳ないんやけど……もう帰れそうやわ」
呆気にとられた表情で定夫を見つめる女。極上の悦びを手放すしかない非情な定めに、定夫の奥歯はギリギリと音をたてていた。
「ありがとうね」
平静を装うことで精一杯の定夫。振り返ることなく部屋をあとにする。
これが正解や。なにも後悔することなんかない。これが正しい選択なんや。
玄関を出て、後ろ手にドアを閉めようとしたその時、エレベーターのほうから無骨な声が。
「配達バッグの中に、一個キウイが残ってたやん! ほんま、わたし、おっちょこちょいやわぁ~」
ドタドタと駆けてくる足音。
ここは逃げ場のない角部屋。 夢であってくれと願いながら、定夫はありったけの力をこめて、まぶたを閉じた。