もはや我慢の限界がきたのだろう。これまで編集者の言葉を拠り所とし、脇目も振らず一心不乱に作品を紡いできた。「いつか化ける、先生は必ずいつか大物に化けるから」と持て囃(はや)され、もう何十年が経つ?
「俺の人生を返してくれないだろうか」気づけば編集者に凄んでいた。
「は、はい? 芥の川先生、どうかされましたか……?」
「うだつの上がらぬ我が小説家人生。書斎に籠もり、外界に触れることもなく、ただひたすらに小説だけを書いてきた。比類なき才能? そんなものありゃしない。全てが虚言。平々凡々な能力しかないことなんて、とっくに勘づいていたよ。よくもまぁ、他人の人生をこれほどまでに――」
「先生、何をおっしゃいますか! もう少し、もう少しの辛抱ですよ。必ず先生は大物に化けますから」
「もう、いい加減にしろ!」
積年の恨みを晴らさんとばかり、私は編集者の野郎をぶん殴ってやったよ。顔面に痛快な一発をぶち込んでやった。嗚呼、清々した。そして私は勢いに任せ書斎――誰に頼んで身を投じたわけでもないこの牢獄――を飛び出してやった。何十年ぶりだろうか、外界に出るのは。それはそれは驚いた。若き頃に記憶した町の風情とはすっかり変わっており、闇雲に洗練されただけの、没個性な都会の街並みがそこには広がっていた。
目をカッ開き、半狂乱になりながら街を彷徨う。そんな私に、ふと、あるアイデアが降ってきた。「そうだ、書店に行こう」。腐っても物書き。活字を求めるのは至極当然のこと。道行く人たちに尋ねながら、どうにか一軒の書店に辿り着いた。いざ足を踏み入れてみると、そこには予想だにしない景色が。思わず卒倒しそうになった。なんのことはない。私は腐ってなんかいやしなかった。むしろその逆。私の見知らぬ世界で、私はすっかり大物に化けていたんだよ。
店内には、先日書き終えた新刊のポスター。極太のゴシック体で芥の川治の名が書かれた告知物が、これ見よがしに貼られてある。老若男女、活字に飢えた者たちが、平積みされた新刊を手に会計へと向かうじゃないか。単行本のコーナーにも、文庫本のコーナーにも、私の旧作がズラリ並んでいる。手に取り立ち読む者、友人と作品の話題で盛り上がる者、好みの作品を棚から抜き取り、会計へと向かう者。
「なぁんだ、私はしっかりと皆から愛されていたんじゃないか!!」
静まり返った書店に響き渡れとばかり、ありったけの声量で私は叫んだよ。一切の承認を欠いたままの孤独な戦い――これまでの鬱屈とした努力が報われたのだから。
自宅に帰ると、編集者は殴られた頬を押さえたまま、宙を見つめ、呆けていた。
「先生、どこへ?」
「街へ」
「まさか書店にも?」
「あぁ、行ったよ」
「ご覧になられた?」
「もちろん」
「知ってしまったのですね」
「あぁ。私が人気作家だったということをね」
それを聞いた編集者は、あからさまに狼狽(うろた)えながら、輪郭を欠いた言葉をボロボロと垂らす始末。頭を掻きむしり、「終わったぁ、もう終わったぁ」と発狂した。まるで酔っ払いの如く、千鳥足になりながら書斎を出てゆき、それから二度と顔を見せることはなかった。
売れっ子であることを知った私が、その後、どうなったのか? 人間というのは実に奇妙な生き物。念願叶い、自身が報われたと知るや、意欲を失い、踏ん張りがきかなくなるものだ。つまりは、これまでどうやって才能を発揮していたのか、皆目見当もつかなくなってしまった。要するに、一文字も執筆できなくなってしまったのだよ。あはは。
朝っぱらから酒を煽り、酩酊。所在なくただ時間だけをゴミ箱に放り入れる。かいた胡座(あぐら)の足元に目をやると、畳の上を這う小さな蟻の姿。
「やぁ、アリンコ。どうやらこの大物作家は、化けの皮が剥がれちまったらしい。木々や草花と同じように、才能も枯れちまうようだ。君の才能は何だい?」
そういや出版社の連中は、俺様の作品が飛ぶように売れていることを隠し、ボロ儲けしてやがったのか。スパルタで作品を書かせてくれたことには恩義を感じるが、金を騙し取るのはいただけない。刃物でも携えて襲撃してやろうかしら。
そんなことを思案しながら、畳の蟻を指に這わせ、机に据え置いた活字不在の原稿用紙の上にそっと乗せた。生きた証は、君自身が記せよ、とメッセージを送りながら。
「そろそろ、お出かけの時間だな」
私の日課は、街を彷徨いながら、道行く人たちに向かって「この私が、かの有名な芥の川治ですよ! 以後お見知りおきを!」と叫び散らすこと。もちろん、皆、蜘蛛の子を散らすように逃げていくよ。その様が実に痛快でね。「化け物だ! 化け物が出た!」と野次(やじ)られるたびに、ほんの少しだけ、自身の中に眠る才能に触れられる気がするのですよ。