「ねぇマスター、なんでここのバーのメニューには、黒いパネルの中に、何枚かオレンジのパネルが混じってるの?」
男はカウンターに座り、オンザロックを飲みながら、マスターに尋ねた。
「これはですね…」
カウンターの向こう、マスターの背後の壁には、ひとつひとつのドリンクメニューが、ネームプレートのようなパネルに書かれており、黒いパネルに書かれたドリンクメニューの中に、数枚だけ、オレンジ色のパネルに書かれたメニューがある。
「このオレンジのパネルのメニューは、直前にオーダーされた女性の方からのメッセージが裏に書かれているんですよ。」
別の客が注文したカクテルを作りながら、マスターが答えた。
「オレンジのパネルのメニューをオーダーいただければ、そのメッセージを読んでいただくことができるんです。ただし、おひとり様、三枚のメッセージしかお読みいただけませんが」
「へぇ、そうなんだ。なんだか昔の伝言版みたいな感じだね。じゃあ、試しに今日、一枚だけ読んでみようかな?」
そう呟き、男は、オレンジのパネルに書かれた、カンパリオレンジをオーダーした。
手に取ったオレンジのパネルの裏には、メッセージが書かれていた。
『ミサです。一緒に映画に行きませんか?もしよければ、今夜オールナイトのプログラムで。四丁目の映画館で十時』
ほんとだ、ほんとにメッセージが書かれている。男はもう一度、そのメッセージを読み返した。
「マスター、ほんとだ。女性からのメッセージが書かれてる。これ、ほんとに女性が書いたものなの?」
「もちろんですよ。先ほど、カンパリオレンジをオーダーされた女性客の方が、そのメッセージを書かれていましたよ」
男はとても興味をそそられ、その女性に会ってみたくなった。
「マスター、ちょっとこの女性に会ってきてもいいかな?」
「ご自由にどうぞ」
マスターは少し微笑み、作り終えたばかりのカクテルを、カウンター隅の客に差し出した。
四丁目の映画館の前、人通りの多い商店街の入り口に女性がひとり、こちらを見て待っていた。男は、ミサさんですかと声をかけ、はい、と答えたその女性と、ちょっとした軽い挨拶を交わし、映画館へと入っていった。今日は話題の恋愛映画が上映されている。
女性と映画を楽しみ、その後、小さな飲み屋で少しお酒を飲み、映画の感想や二人の身の上話で存分に盛り上がった後、タクシーに乗り込む女性を見送り、男は帰宅した。まるで、カップルのように楽しい時間を過ごした。そんな夜だった。男はまるで何かを忘れようとしているかのように、何か思いを振り切るように、その女性と楽しんだ。オレンジのパネルのメニューに書かれていたメッセージを思い浮かべながら。
別のある日も、男はバーにいた。
「マスター、オレンジのパネルのキューバリバーをお願い」
「かしこまりました」
マスターはカクテルグラスを手に取りながら、男にオレンジのパネルを差し出した。
そこには、別の女性からのメッセージが。今度はどうやら、クラブで踊りに行かないかとの誘い。男はそのメッセージを読み、キューバリバーを飲み干した後、マスターにひとこと告げ、バーを後にした。
その日も男は、まるで悲しい思いを振り切るかのように、思いっきりはしゃぎ、笑い、汗をかいて楽しんだ。クラブのホールに流れる大音量の音楽に身体を揺らしながら、メッセージの女性と一緒に、夜という時間を余すことなく楽しんだ。帰宅した男は、何もかも忘れて去ってしまったかのように、ヘトヘトになって、ベッドに沈んだ。
そして男は、今日もバーにいる。
「マスター、今日はねぇ、オレンジのパネルのスクリュードライバーを」
「かしこまりました」
マスターはオレンジのパネルを壁からはがし、手渡す際に、男に告げた。
「お客様、今日で最後のパネルになります。最初にお伝えしたように、おひとり様、三枚までしか、メッセージを読むことができません」
「そうか…今日が最後のメッセージか。もう、こうやって女性と出会うこともないのか…」
そう思うと、男は最後のメッセージを読んでしまうのを、とても物寂しく思った。とはいえ、いつかは読む最後のメッセージ。それが明日でも今日でも変わるまい。そう思いながら、オレンジのパネルを裏返し、メッセージに目を落とした。
『Mさんと出会って二年。ほんとにあっという間でしたね。思い返せば、二人が笑い合う、楽しい思い出ばかりがよみがえります。ワガママなわたしのことを、あんなにも愛してくれて、ほんとにありがとう。あなたは、わたしにとって、かけがえのない存在でした。あなたにとっても、わたしがそうであればと願います。今日の最終の新幹線で、この街を出ます。今までほんとにありがとう。そして、さようなら』
男は先日、付き合っていた女性と別れた。男の勝手といえば、そう。そうせざるを得なかったのかといえば、そうだったのかも知れない。男はオレンジのパネルを通じて出会う女性と楽しむことで、別れの傷から目をそらし、どうにかその悲しみを忘れようとしていたのだ。
まさか三枚目のメッセージが、彼女からのものだなんて…。
男は彼女と別れてしまったことを、ひどく後悔した。大切なものは、失って初めて気づくとはよく言うが、男はまさに今、そんな気持ちに押しつぶされそうになっていた。
「マスター、ちょっと彼女を追いかけてきてもいいかな?ぼくは大切なものを失いそうだった。このメッセージがそれに気づかせてくれたんだ。追いかけて、彼女を迎えに行ってくる」
今ならまだ間に合う、男はマスターに勢いよく、そう告げた。財布を取り出し支払いを済ませようとした時、
「今日のお代は、けっこうですよ。お二人で仲良く一杯やられてはどうですか?お互いの気持ち、今なら素直に話し合えるでしょう?」
マスターは、ちょっと照れくさそうに、静かに微笑みながら、男にそう言った。
「ありがとう、マスター」
そういって、男はバーを後にした。
閉まりかけたドアからは、店外のネオンの光が差し込み、やがてその光は細くなり、ドアが完全に閉まると、バーの店内は、元通りの薄暗さを取り戻した。
カウンターでは、中年の男がひとり、バーボンのロックをチビチビと飲んでいる。
「マスター、読心術のほうはどうだい?最近も使ってるのかい?」
その中年の男は、カクテルグラスを磨くマスターに、そう尋ねた。
「いいや、そんなに使っちゃいないさ。ごくごくたまにだね。ほんとは愛し合う運命なのに、ボタンの掛け違えで別れてしまいそうな男女が後悔しないようにって。なんのことはない。ただのおせっかいさ」
「俺ぁ、そんなマスターのおせっかい、嫌いじゃないけどねぇ」
「なぁに、人の心を読むなんて、ろくなもんじゃないよ」
ふふふと笑いながら、マスターは、ゆっくりと包丁を手に取り、カクテル用のライムを切り始めた。壁のドリンクメニューには、オレンジ色のパネルは、もうない。