「まったく、おそろしい世の中だよなぁ」
行きつけの安居酒屋。同僚の安永がキュウリの漬物を口へと運ぶ。
「へぇ。そんな危険なサイトがあるなんて知らなかったよ。いわゆる闇サイトってやつだな」
ほろ酔いの目をこすりながら、田中はスマートフォンを取り出し、検索してみた。
「ほんとだ。物騒なサイトが並んでらぁ」
「だろ」
一億総発信者時代と言われて久しい。誰もが日常を切り取り、気軽に投稿する。個人が表現できる場が増えた反面、その先には悲しき末路が待っていた。一般人によるテロ行為の氾濫だ。
飲食店でモラルを欠いた愚行を働き、仲間内で盛り上がる。そして、それをインターネット上に投稿する。承認欲求の成れの果てといったところだろう。公共の場は、もはや公狂の場と化してしまった。
テーブルに備え付けられた箸や爪楊枝、調味料を使って不衛生な遊びをしたり、回転寿司のチェーン店では、レーンを回る寿司にイタズラしたりと、やりたい放題の迷惑行為が動画として拡散された。
世も末か――と思われたが、安永が言うには、本当のおそろしさはその先に待っていた。
闇サイトでは、いわゆる一般人のテロ動画の買い取りが行われていた。しかも、信じられないほどの高額で。
「そりゃ、組織はいくらだって払うだろうよ。だって、人の運命を掌握できるわけだからな」言葉を尖らせる安永。
組織のやり口はこうだった。
仲間内だけで盛り上がるために愚か者たちは蛮行を働く。より多くの仲間と盛り上がるために、その行為は動画として保存される。この時点ではまだ、動画は世に出回っていない。手元のデバイスに眠ったままだ。組織は、この段階の動画を買い取る。
「運命?」
「そうさ。だって、その動画が世に出回れば、そいつは企業から訴えられて、多額の賠償金の支払い義務を負うことになる。売上の損失や株価下落の影響を考えれば、賠償金は相当な額になるだろう? 当人だけじゃ済まないぜ。家族や親戚すべてが日陰者になっちまう」
「そんな事例もあったな」
田中はグラスの底に残ったわずかなビールをすすり、食い入るように同僚の話に耳を傾けた。
「で、組織は動画を買い取ってどうするんだ?」
「考えりゃ分かるだろ? 当人を脅すのさ。金を支払えば動画の拡散は見逃してやる。もし払わなければ、動画を拡散する。そうやって卑劣な選択を迫るのさ」
「なるほど……だから運命を」
「そう。もちろん、脅しは一度で終わるわけがない。組織が動画という弱みを握っている限り、永遠に脅し続けられるわけだ」
一瞬の笑いのための出来心が、二度と逃れられない呪縛となる。もちろん自業自得以外の何ものでもないが、憐れむしかない人生に、田中は言葉を失った。
世の中は、告白でまみれた。
動画の拡散をおそれ、組織に脅されることもおそれた愚者たちは、自身の悪行を告白する動画を自らで投稿しはじめた。誰かに運命を握られるくらいなら、自分で自分を切りつけたほうが軽症で済むからだ。
飲食店での軽いイタズラの告白はもちろんのこと、万引きや自転車の盗難なども、店内や街頭のカメラが捉えた証拠映像として出回ることをおそれ、告白のネタになった。
『わたしは悪人です――』
告白動画の冒頭の決めゼリフだ。これまでタレントや経営者、政治家でしか見たことのなかった謝罪風景。今では一般人の謝罪動画を目にしない日はない。
それだけじゃない。
個人に続けとばかりに、企業も謝罪動画を投稿しはじめた。
企業の劣悪な内情を知る社員やアルバイトからの告発をおそれた企業も同様、世間で騒がれる前に自らの落ち度を認め謝罪。数々の偽装、パワハラセクハラ、粉飾決算。次から次へと企業の悪事が自白されていった。
その日も例に漏れず、安居酒屋で一杯ひっかけた田中。店をあとにし、帰路につく。アルコールで火照った頬に、冷たい風が心地よかった。
駅までの道を歩きながら、スマートフォンで告白動画を眺める。ふと背後に人の気配を感じたが、「気のせいか――」と、酔いのせいにして手元のスマートフォンに視線を戻した。
仕事は暇なし、給料は上がらない。いっこうに暮らしも楽にならない。それでも平穏に生きている。家では優しい妻も待ってくれている。ただそれだけのことが、何より幸せだと思えた。
ズラリと並ぶ告白動画のサムネイル。その中に、見覚えのある顔が現れた。
「えっ?!」
そこには田中の妻が映し出されていた。
『わたしは悪人です――』
聞き慣れたセリフが流れる。
『貧乏で退屈な人生を生きなければならないのはすべて夫のせいです。もう我慢も限界。そんなわたしは、夫への復讐の機会を伺っています。夫がいつか悪行を働きやしないかと。それを闇サイトに売って多額のお金を得るために、夫を盗撮し続けています。そう、今も――』