あの日から、わたしのトラウマは消えない。
はじめて彼の家に行った日。そして、はじめて彼に抱きしめられた日。いや、正確には、抱きしめようとしてくれた日。
脳内で非情なカウントアップがはじまり、わたしは彼を拒絶した。彼の寂しそうな顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
ごめんなさい。
小さく呟いたわたしの言葉は、落胆する彼の心を、さらに深くえぐったに違いない。
「へぇ。なんか才能に溢れた部屋だね」
彼の部屋に招かれたわたしは、ワンルームの中に敷き詰められた品々を眺めた。
「自分でもちょっと困ってるんだよ。無駄に趣味が多いからね」彼は照れながら言った。
天井近くまである大きな本棚は、漫画や小説で埋め尽くされていた。色とりどりの背表紙は、見ているだけで爽快だった。他にも、ギターや小型の電子ピアノ、大きなモニタとパソコン、見たことのない電子機器がズラリと並んでいた。これといった趣味を持たないわたしの殺風景な部屋とは別世界だった。
人生ではじめてできた彼氏。コンビニのアルバイトで一緒だった彼とは、プライベートでも遊ぶようになり、気がつけば手をつないで歩く仲になっていた。
そしてわたしは、彼の部屋に招かれた。
異性の部屋になど足を踏み入れたことのないわたしは、その日の朝の目覚めから、すでに緊張を隠せないでいた。
「ミサキって、漫画とか読んだりする?」
「う~ん。子供の頃は少女漫画とか読んでたけど――最近はあんまり読んでない、かな」
沈黙ばかりが目立つ空間。なんとかそれを埋めようと、不器用な会話がポツリポツリ。普段は沈黙などない二人なのに、わたしの緊張が彼に伝わってしまっているのか、それとも、彼自身も緊張しているのか、いつもとは別人のふたりがそこにいた。
小さな丸形テーブルを挟むように座っていたが、いつしかふたり、ベッドを椅子代わりにし、並んで座っていた。
「なんか、緊張しちゃってごめんね……わたし、男の人の部屋とかはじめてだから――」
気まずさを生んでいるのが申し訳なくて、彼に謝ったそのときだった。彼はベッドの上にわたしを倒し、覆いかぶさってきた。見上げる天井との間には彼の顔。荒くなった鼻息が、わたしの頬を撫でる。
素直な性格の彼。人柄もよく、嘘をつくこともない。周りからの人望も厚く、真っ直ぐな生き方をしている理想の人。わたしは彼のことが心底好きだった。だから、わたしのはじめてを彼に捧げることに、一切の抵抗はなかった。だから、ゆっくりと目を閉じた。それなのに――
――えっ?
つむった目がつくる真っ暗な世界の中に、電光掲示板が現れ、時を刻みだした。一秒、また一秒とカウントアップされていく。そして、15秒が過ぎたあたりで、わたしは目を見開き、彼を思いっきり突き飛ばした。
事態が理解できない様子の彼は、ベッドの上に正座したまま、呆然としている。
「ごめんなさい……」
わたし自身、わたしの中で何が起こったのかが理解できないでいた。彼を受け入れるつもりだったのに、体が勝手に――
「僕のほうこそ、いきなり、ごめん」
「リョウタは何も悪くないよ……だから、謝らないで」
その後、どんな風に時間をやり過ごしたのか、どんな言葉を残して彼の部屋を後にしたのか、記憶が定かじゃない。でも、彼を傷つけてしまったことは事実。黒煙のような罪悪感だけが心の中に残っていた。
あれから何度も彼の部屋に遊びに行ったが、愛を確かめ合おうと、彼と重なるたびに、電光掲示板が現れ、彼を拒み続けた。
なんとか19秒までは耐えられるようになったが、そこが限界だった。毎回、信じられないほどの力で、彼を突き飛ばしてしまう。
その日も彼と交わることなく、そして、やはり彼を突き飛ばしてしまったあと、彼の部屋を後にした。恋人からひどい仕打ちを受けてもなお、わたしを愛そうとしてくれる彼には、ただ同情するしかなかった。
バイトのシフトが入っていた彼。出勤ついでにわたしを家まで送ってくれることに。ついさっきの気まずさを背負いながら、手をつないで歩いていると、前からガラの悪い三人の男が歩いてきた。
冷やかすようにニヤついていたヤツらは、案の定、わたしたちにちょっかいを出してきた。
「なぁ、おねえちゃん。そんなひ弱そうな男と付き合ってねぇで、俺らと遊びに行かね?」
リーダー格と思われる男がにじり寄り、彼の肩を突き飛ばした。
怒りが一瞬で沸点に達したわたしは、男の胸倉を掴み、地面に投げ飛ばしていた。
あまりの迫力に気圧されたのか、残りの男たちはうずくまる男を立たせ、一目散に逃げていった。
リョウタ、ごめん。わたし、ずっと嘘ついてたんだ。文化的な趣味の多いリョウタのことを好きになり、わたしのことをもっと好きになってもらいたくて、可憐な女を演じてきた。本当はそんな女じゃないのに。ごめん。好きになって欲しくて。嫌いにならないで欲しくて。ずっとずっと一緒にいたくて。だから、ずっと嘘をついてきた。
積み上げてきたものが壊れゆく音が、頭の中に鳴り響く。立ち尽くすリョウタを置き去りにするように、わたしはその場から走り去った。
「おぅ! ミサキ、どうした? 今日は早いじゃないか」父がわたしに声をかける。
「まぁね。大会も近いし」
「リョウタはどうした?」
「一緒にきてるよ」
わたしは道場の入り口を指差す。そこには、一礼しながら道場に入ってくるリョウタの姿。
わたしを抱こうと覆いかぶさってくるたび、彼を突き飛ばしてしまう理由。実はわかっていた。なぜ、電光掲示板が現れるのかも。
だって、20秒間抑え込まれちゃったら、一本を取られてしまう。幼い頃から柔道に情熱を注いできたわたしの体は、正直に反応してしまうんだ。
「今日も気合い入れて練習しろよ、リョウタ!」父が彼に発破をかける。
あれからわたしは、彼にありのままのわたしを打ち明けた。柔道一筋の自分のこと。文化的なことに興味を持ったことがなかったこと。でも、これからリョウタの趣味にも一緒に触れていきたいと願っていることも。
すると彼は言った。
「僕も柔道やってみようかな」
そんな彼のことが、わたしはやっぱり大好きだ。
結果的に、柔道の師範である父にも、彼のことを紹介できた。そして何より、同じ道場でこうして、彼と時間を共有できるのが嬉しかった。
「お前、抑込技を磨きたいんだろ?」父がリョウタに言う。
「はい!」
「珍しいな。華やかな投げ技とかに興味を持つヤツが多いのに」
「ミサキさんから、抑え込みで一本を取りたいんです」
「ははは! このバカタレが! ミサキの強さを見くびるなよ」豪快に父は笑った。
今ではリョウタの家で同棲をはじめたわたし。まだ、彼とは交われていない。あいかわらず、愛しい恋人を突き飛ばしてしまう毎日だ。そう。まだ、彼はわたしから、一本を取ることができないでいる。
でも、彼の努力を見ていると、抑え込みが決まる日も近いかもしれない。
わたしは黒帯。柔道をはじめたばかりの彼は、もちろん白帯。
運命の人との恋愛は、赤い糸で結ばれているなんて言われるけど、わたしとリョウタを結んでいるのは、黒と白の帯なのかもしれない。