そろそろ体力の限界かな。
この仕事から身を退(ひ)くことを考えはじめたのは数年前。思うように身体が動かなくなっている自分に気づいたからだ。
素性を明かせないこの仕事。誰にも顔を見せてはならないし、誰かに知られることも許されない。
ふふ。そう聞くと、極秘プロジェクトみたい。でも、この仕事に誇りを持っている。今日も無事に仕事を終え、わたしは本来のわたしに戻る。
人の群れをかき分けゲートを出た。誰もこのわたしに気づかない。
車のシートにドサッと身体をあずける。ドアを閉めると、一瞬にして外界から遮断された気になる。
かすかに聞こえる賑わう声。それに別れを告げるように、アクセルをグッと踏み込んだ。
「違うじゃない! もうちょっと俊敏に動かないと。イメージトレーニングが足りてない証拠だよ?」つい熱が入る。
「すみません!」
彼女は気迫のこもった声で謝ると、同じ動きを何度も繰り返し、首をひねってはまた繰り返す。
なかなか、やるじゃない。
わたしがこの役目を下りようと思った理由のひとつに、祥子(しょうこ)の存在がある。
自分を捨てて何者かになろうと志(こころざ)す志願者。つまりは、新人。ここ数年、わたしは彼女の仕事っぷりを厳しく見守ってきた。
悪くない。悪くないけど、決していいわけでもない。評価が辛口すぎる? そんなことない。この世界はそんなに甘いもんじゃないから。でも……。
その夜、わたしは祥子を別室に呼び出した。
「どうしました?」
「今までついてきてくれてありがとう。厳しいトレーニングにも耐えて、よく頑張ったね」
「え?」
「どうぞ」
わたしは彼女に手渡した。このわたしのすべてを。
「わたしからあなたへ、この着ぐるみをバトンタッチ」
「え?」
彼女は急な展開に戸惑っているようだ。
「今日からあなたが主役。あなたが、ラブリーエンジェルよ」
客席側からステージを眺めたのは何年ぶりだろう。自分がステージに立っていると、すごく広く感じるのに、ここからだととても狭く見える。
田舎の寂れたテーマパーク。その片隅に設置されたこのステージ。少子化で子供の数が減ったとはいえ、いつでも客席は賑わっている。ありがたいことだ。
ラブリーエンジェルが待ちきれず叫ぶ子供たち。落ち着かない我が子を叱りつける親たち。いつもはステージ袖(そで)で耳にしていた声が、いまはすぐ隣に。なんだか新鮮だなぁ。
ショーがはじまると、子供たちは一斉に立ち上がる。悪党がステージを埋めるなか、カラフルな着ぐるみで登場するのは、悪の手から地球の平和を守るラブリーエンジェル。子供たちの応援にも熱がこもる。
祥子の動きを親心で見守っていると、客席の声がふと気になった。
「なんだかいつもと違う気がするなぁ」
それは子供の声だった。
子供は敏感で正直だ。何度もショーを観にきてくれる子供たちは、ラブリーエンジェルの動き、いや、わたしの動きを知り尽くしている。だから、バレてしまうんだ。
祥子への心配が募(つの)る。
彼女の動きは練習どおりだ。今のところミスもない。主役としての初舞台だからって、萎縮しているわけでもない。それなのに――。
そして、決定的な瞬間が訪れた。
まだ悪党のアクターと息が合っていないためか、祥子は格闘シーンでパンチを避(よ)けきれず、態勢を崩したまま、不格好にもステージから足を踏み外してしまった。
気づけばわたしは笑みをこぼしていた。
子供のようにショーを楽しんでいるわけじゃない。祥子の成長を喜んでいるわけでもない。その逆だ。
彼女のミスを見て、思わず笑みがこぼれてしまったのだ。
ふふ。真のラブリーエンジェルは、このわたし。わたし以外、誰もなり得ない。子供たちに言ってあげたい。君たちの憧れるヒロインはすぐ隣にいるよ、って。
実は祥子を見守る目に、親心なんて微塵(みじん)も宿っていなかった。彼女の失態を見て、勝ち誇った気でいる。わたしはそこまで大人じゃなかったんだ。ずっとずっと地球を守り続けてきたのは、わたしじゃなくて、ラブリーエンジェル。
ごめんなさいね。会場で一番の子供は、どうやらわたしだったみたい。
笑みを浮かべたまま、わたしはステージに背を向け、客席から立ち去った。
いつもとは違う気分で人の群れをかき分ける。出口ゲートの手前にあるグッズショップを抜けようとしたとき、「今日のラブリーエンジェルのステージ、楽しみだな!」子供の声が聞こえた。午後からのショーを楽しみに来場した女の子のようだ。
改めて思う。こんなにも子供の目を輝かせるラブリーエンジェルの存在って、すごいな。
この子の無垢(むく)な期待を思えば、自分の幼い承認欲求が恥ずかしくなってきた。
「祥子、頑張ってね」
小さくつぶやく。これは本音。でも――。
「ねぇ」
気づけばわたしは、その子に優しく声をかけていた。そして、身体が勝手に動く。ラブリーエンジェルの振り付け。周囲は呆気に取られた様子でわたしを眺めている。
素性を明かしてはならないわたし。でも、最後にすべてを出し切りたかった。ラブリーエンジェルはここにいるよ。わたしはここにいるよ、って。
「わぁ! すごーい! ラブリーエンジェルみたい!」
彼女ははじける笑顔で喜んでくれた。なんだか胸がスッキリした。
「ありがとうッ!」彼女は言う。
「いえいえ、どういたしまして」
「お礼に――」
彼女は自分のカバンにつけていたキーホルダーを外して、わたしに手渡した。ラブリーエンジェルのグッズだ。
「はい! お礼にわたしから、おばちゃんにプレゼントッ!」
おばちゃん? そっか……わたしはラブリーエンジェルでも何でもなく、ただのおばちゃんなんだな。
少女の頭を撫でてやり、ラブリーエンジェルのキーホルダーを握りしめたまま、パークをあとにした。
質素な夕食をつついていると、彼が声をかけてきた。同棲してもう何年も経つ恋人だ。
「なぁ」
「ん?」
これまた質素な掛け合いのあとに彼が手渡してきたのは、キラキラと輝く指輪だった。
「結婚しよう」
「え?」
「君の仕事もひと段落したんだし、これを機に、結婚しよう」
そうか。彼は待ってくれていたんだ。わたしがわたしに戻る瞬間を。彼の優しさに助けられた日々を思うと、なんだか泣けてきた。
わたし、子供だよ。全然、しっかりしてないよ。それでもいいの? わたしからあなたに、してあげられることなんて、何もないかもしれないよ。
「こんなわたしで、いいの?」
弱気なセリフが口をつく。そんなわたしを、彼は強く抱きしめてくれた。
「元ラブリーエンジェルと結婚できるなんて光栄だよ。これまでは地球の平和を守ってきたんだろ? じゃあ、これからは俺のことを守ってくれよな」
彼の気の利いたセリフにわたしは笑う。笑った拍子に態勢を崩し、彼に押されるように倒れ込む。まるでステージから落っこちるようにして。
彼はわたしを抱きしめたまま、その手を背中にまわし、ブラウスの背中ファスナーに指をやる。背中ファスナー? そうだ、もう着ぐるみのファスナーじゃない。
ラブリーエンジェルのファスナーを下ろせば、中からはわたしが現れたけど、ブラウスのファスナーを下ろせば、生まれたまんまのわたしが登場しちゃうよ。 そんなことを考えながら、わたしは唇を重ね合わせた。