ある作家の代償

 ある小説家の人生が一変したのは、あのペンを手にしてからだった。
 小説のネタを探そうと、インターネット上をうろついていたとき、そのバナー広告が目に飛び込んできた。
〈ペンが勝手に物語を紡ぎ出す。そんな魔法のペンで小説を書いてみませんか?〉
 鳴かず飛ばずの執筆活動。才能のなさを痛感する日々に頭を抱えるばかり。男は迷うことなく広告をクリックした。遷移した先のサイトの怪しさなど気にすることもなく、衝動のままにそのペンを購入した。

 注文したショップから届いたペンを手にしたときの衝撃は凄まじかった。梱包を剥ぎ取り、同梱されていた取扱説明書のような小さな冊子を投げ捨てる。そして、尖ったペン先をした魔法の筆記具を握ってみた。意気込み、筆を走らせようとした刹那、まるで意思を持っているかのようにペン自らが無邪気に動きはじめた。活きのいい鰻を思わせるそれは、跳ねたりうねったり。繊細な筆記具からは想像もつかない荒れっぷりで、手に馴染ませるのに相当の時間を要した。
 ペンの赴くまま、自由に筆を走らせてみる。
「うそだろ?!」しばらくして男は思わず声をあげた。
 ただ暴れているだけに見えたペンは、原稿用紙の上で物語を紡いでいた。手を添えているだけで、次から次へと文字が連なっていく。パソコンのキーボードをタイピングしているようなスピードで。
 思えば新作のネタに困ると、一日中、部屋の中をうろつく始末。うだつの上がらない日々がまるで嘘のよう。そんな不毛なことからは卒業せよと言わんばかり、魔法のペンは次々と作品を仕上げていった。ショートショート作家である男の机の上には、傑作が渦高く積み上げられていく。
「これで俺も有名作家の仲間入りだ!」
 ペンが紡ぐ物語は、ただ目で追っているだけでもワクワクした。どれもこれもが光輝いていた。これまでに執筆してきた作品とは比べ物にならない。ショートショートの大家にまで昇りつめた自身の将来像を思い浮かべ、男はほくそ笑む。
 ペンの仕事っぷりを労おうと、原稿用紙から手を浮かせた男は、相棒のペン尻を優しく撫でながら呟いた。
「これからもよろしくな」

 その後の作家人生は、男の思い描いたとおりのものになった。斬新な切り口から放たれるショートショート作品の数々。瞬く間に多くのファンを獲得していった。短編賞をほしいままにし、さらには長編作品しか受賞できないとされてきた栄誉ある賞をも手にする快挙をみせた。
 しかし、順風満帆な男の人生は、ちょっとした出来心によって激変する。
 あの日は新作の授賞式の帰りだった。新人の美人作家が話を聞きたいとすり寄ってきたことに、男は鼻の下を伸ばしていた。会場をあとにした二人は、偶然見つけたバーに潜り込む。身を寄せながらグラスを傾け、アルコールの酔いに流されるまま、淫靡なネオンが煌めくホテルへと。
「ねぇ先生、わたしにも小説の書き方を教えてくださいよ」
「あぁ、いいよ」
「ほんとっ!?」
「特別だよ。その変わり、これからもこうして、僕と会ってくれるかい?」
「もちろんです!」
「単に会うだけじゃダメだよ。会ったときには君の――」
 下品な視線を投げつけた男は、女の肌をなぞり、乳房に手を這わせた。
 若い女流作家を支配したことに気を良くした男は、裸のままベッドを飛び出し、カバンから例のペンと原稿用紙を取り出した。
「ほら、僕のペンを貸してあげる。これで作品を書いてみなよ。きっといい作品に仕上がるから」
 手渡されたペンにうっとり見とれる女。ペン先を原稿用紙に落としたときだった。高貴な気品を漂わせていたペンが、突如として怒り狂ったように暴れ出した。女はそれを制止しようと固く握るも、荒れ狂うペンは原稿用紙を忌み嫌うように反発し、跳ね回る。そして、尖ったペン先は、あろうことか男の喉元に突き刺さった。

「先生、本日締切の原稿をいただきに――」
 部屋に入ってきた編集者の声を背後に聞くと、男は振り返りもせず、指で原稿の在り処を示した。
 あの夜、ホテルで起きた事故により、男は声を失った。後々になって知ったことだが、魔法のペンは貸与が固く禁じられていた。ペンが届いたときに投げ捨てた取扱説明書に書かれてあったのだ。売れない作家が、すがる思いで手にした起死回生のペン。冷静に説明書など読むはずもない。
 物書きからすれば、活字は声以上に崇高なもの。それを刻んでいくペンは魂と直結している。例のペンほどになれば、もはや呪物と呼んでもいいだろう。ルールを逸脱した代償に声を奪われたとしても仕方あるまい。
 もともと作家なんて孤独な生き物。何者でもないあの頃ならば、他人にペンを貸す機会などなかった。ただ、薄っぺらい自尊心を満たすためだけに、我を忘れてしまった。軽率な行動が起こした悲劇。いや、無様な小説家の喜劇だったのかもしれない。
 それでも尚、男は魔法のペンを使い、作品を紡ぎ続けた。筆談ショートショート作家。文壇での快進撃もとどまることを知らない。
 編集者は原稿を手に取り、連なる文字を目で追っていった。
「今回も傑作ですね! ありがとうございます――それはそうと、どうしてペンのインクを赤に変えたのでしょうか?」
 不思議がる編集者を、苛立つ素振りで追い払うと、部屋には再び静けさが戻った。
 愛おしそうにペンを撫でると、男は目の前の原稿用紙を裏返しにし、ペンを走らせた。そこには血なまぐさい臭いを放つ赤い文字が浮かび上がった。
〈これからもよろしくな〉

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